Title: 共有
2009.09.19

宗教や信仰を深めていくということは、感覚の世界だ。

いうなれば感覚の共有なのかもしれない。

夕焼けを見たときの感動を人に伝えるときに、自分にできるのは、夕焼けのところまで足を運んでもらうことしかできない。

その道筋を説くのが仏法なんだと思う。

それぞれの宗派がそれぞれの方法で、同じ感覚を目指しているようなものなんじゃないかと思う。

悟りも感覚の問題なんだろう。

夕焼けを見たとき。誰かを好きになった時、なんでもいいけど、自分の中に湧いてきた様々な感覚の中の1つとして、悟った時の感覚というのがあるんだと思う。

夕焼けを見たときの感動を伝えようと、赤だとか、すごい色だとか、どんなに説明しても、それは理屈で、なんとかそこでわかった気になっているか、わかった気になろうとしているのがほとんどなんだろう。

いままで悟りなんてものは自己申告じゃん。と思ってたし、そんなの意味あるのかい。なんておもってたけど、違うわ。

その感覚がどんなものかわからないけど、そういう人がいて、対峙したとしたら、きっと自分のところと同じところにいないのはわかるし、その人の行動や言葉にすべて、自分にない感覚を味わえるんだと思う。

それが言葉が通じようと通じなくとも。

例えば、めちゃくちゃきれいな夕焼けで感動した自分と、おんなじくらいきれいな夕焼けをみて感動した誰かとは、たとえば多くを語らなくてもわかりあえるし、

きっとこの色なの?と夕焼けを見たことない人に、赤い絵の具を渡されたときに、いやいやいや!と笑いあえるんだろうと思う。

それがつうじあうということなんだろう。

いま自分の中にある感覚が信仰の中でどのへんなのかとか、わかんないけど。

いま自分の中にある、気持ちや感覚に近いものを味わったことがある人となら、目でも言葉でも、きっとこの感覚で、マンガの話をしても、宗教の話をしても、車の話をしても、ゴルフの話をしても、わかりあえるんだと思う。

きっとその人と、真っ白なキャンバスを前にいっしょに大笑いできるかもしれない。

雨の日にずぶぬれになっても大笑いできる気がするし。

これがここにあるとしたら、これはここだよね。そしたらこれはこのへんじゃない?なんて、茶碗や湯飲みや橋を机の上に並べて大笑いできるのかもしれない。

感覚をわかりあうということは、なにを話しても端々にその感覚はにじみ出るし、そこに通じた同志ではわかるものというのがあるんだと思う。

これはなんでもそうだけどね。

ラグビーやったことやったことある人たちでわかりあえる感覚を、やったことない人にはわからないし、でもやった者同士では、ツーカーでわかるようなもんだ。

感覚を共有したものどうしでわかるツーカーの感じ。

ここ数カ月で自分の中でつながった、点と点はけっこう強固で、いっこうにほどけそうもない。むしろこれであっていてくれともおもうし、あっていてもあっていなくてもいいともおもうし、あってないほうがいいかもとも思う。

味わったことないこういう感覚が、もっとたくさんあるのかと思うとたまらんと思う。三昧の境地とかどんな気持ちなんだろうか。味わってみたい。

いままで自分にとっての善知識はなんなんだろうかと考え込んだことがあるけど、おぼろげにいま思うのは、自分にとっての善知識は、この環境すべてなのかもしれない。

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Title: すすむみち。
2009.09.17

自分が成長したなと感じるのは、人と関わる中で苦しんだときで、その中で喜んだときで、感動したときで、悔しかったときで、悶々としたときで。そういう体験が少しずつ自分を押し上げてくれてるような気がする。心がざわつくというのはありがたい。

毎回この時期に子どもたちが運動会の練習をしているのをみると、いろんな想いがこみあげてくる。最近思うのは、その子が、赤ちゃんだった頃とか、お腹にいるころから知っている子どもたちが、泥だらけになって真剣な顔で、走ったり、悔しがったりしているのをみると、ほんとうに人間というのはすごいなとおもうし、不思議だとも思う。

それに、何年もここにいて、何人も兄弟とかずっとみてると、ほっんとにここ一番の、へたれ具合とか、悔しがり方とか、感情があらわになる瞬間にでてくるものって、ほっんとに兄弟って似てると思う、同じものが流れているんだなということを思う。

世の中には理屈じゃ説明できない何かがたくさんある。あたりまえ、というものほど目を凝らせば感動するものないなと思う。この瞬間に感動できない事象なんてないんだろうと思う。

いいなあ人。

と書いてみたら。

思いだした。

まえに人はいいなあ。といったら、とある人から、あなたは誰かに裏切られたことがないだろうし、恵まれているからそういうことがいえるんですよ。でもそうじゃない人もいることを覚えていてください。と言われたことがある。

まさにピシャッと。

その時は、はい覚えておきます。といったもんだ。

最近思うんだ。

そういうことはたくさある。

命の話をしてもそうだし、人の話をしてもそうだし、例えば慈悲の話をしてもそうだ。

日々の生活に追われてて、人にも裏切られて、命がありがたいとか言われてもぜんぜんピンとこないし、そんなことよりも自分は自分が食べていくのが精いっぱいだし、あんたみたいにのうのうと生きてないんですよ。

お寺で話をきいて、わかってるんだけど、なかなか目を向ける時間なんてないんですよ。っていうことはよく言われる。

本当にその通りで、明日食べてくのが必死であったり、子育てしてたら、、生きていくことが精いっぱいで、そんなことを考えている余裕なんて普通はないだろうし、むしろ宗教や信仰がなにをしてくれるんだい。

よっぽどお金でも配ってくれた方がありがたいわい。

といわれればそうかもしれない。

たしかに自分はのうのうといきてるし、ヘラヘラいきてるし、恵まれてるし、生活に追われてはいない。だから、その人たちの気持ちを心からわかることはできない。わかりますよ。なんていえないよ。そうじゃないもん。

でも自分がそれでもなんで命の話をしようと思って、慈悲の話をしようと思って、それでもやめないぜ。と思えるのは、

自分はまだ若いのかもしれないけど、きっとお寺に生まれて、大好きなおじいちゃんやおばあちゃんみたいな人がたくさん死んでいったり、時に若い人の死にも立ち会ったり、そうやって人が死んでいくのを見てたり、年老いて、病気になったり、ボケたりするのもみてきて、それを小さいころから、目をそむけたくてもできない環境に自分なりの方法で適応しようとしてきたからなんだと思う。

そういう環境にいることがいやでしょうがない時もあったけど、今になって思うのは、これがお坊さんってことなんだなと思うし、お寺に生まれるということなんだと思う。

それに残された人たちを見てくる中で、大好きな人の死を乗り越えることがどういうことかをまざまざとみてきて、正直、自分がそういう話をしたり、仏教にここまで感情移入できるのは、なによりも自分が死ぬのが怖いからで、老いたくないし、病気にもなりたくないし、それが怖くて、大切な人の死を乗り越えることができるか不安なんだな。だからそれをなんとか払しょくしたくてなんだと思う。

そんでこの、老いること、病に伏すこと、死ぬこと、は決して自分だけがぶつかっているわけじゃなくて、生きてる人みんながぶつかってる問題だから、生活に追われてても、だれかに裏切られて打ちのめされてても、そんなことお構いなしに、やってくるもんだ。

いくつだろうとこれをいま読んでる人全員。それにぶつかって、「はいこんにちは」ってなってどうしょうもなくなったときに、

そういうときのために仏教っていうのがあるんだよ。

それをどうやったら受け止めていけるか考えて、考え抜いたお釈迦さんって人がいるんだよ。

でも正直自分はそれ試せないし、たぶんそのまんま受け入れるのは無理だわ、だから

自分はね親鸞さんのこの言葉があってよかったと思うんだよね。

それに唯円っていう人がいてね。極楽とかよくわかんないっていってんだよ。

他にもたくさん、何百年も何千年も前からね、そういう問題に向き合ってた人がいてね、それをお経っていうものにまとめたんだよ。

いきなりこれ渡してもこまるだろうから、自分なりの解釈を話すね、これはかくかくしかじかでね。

って

話すのが法話なんであって。

それがお坊さんの仕事。

そんでこれが自分のすすもうとしてる道なんだろうな。

お坊さんは社会的に有益でなければいけない。と最近よくいわれるけどね。

これ1本で有益だと認められなきゃ意味ないと思う。

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Title: 死にかけてますがなにか。
2009.09.15

もしいま突然。

「おいそこの死にかけたおじさん」

と言われたら。むかっとすると思う。

でもそれは全部事実なわけだ。生きている以上、死にかけてない人なんていないし、自分はもうお兄さんでもない。

でもそれにむかっとするということは、

自分は死にかけてないし、おじさんでもないと思いこんでいるからなんだ。

この思い込みを、仏陀は妄想と呼んで、そこでむかっとする気持ちを苦しみと呼んだ。そんで、その苦しみを解消するために、物事を正しく受け止めて、事実を正しく見なさいと言った。その物事を正しく見ることを智慧というと言った。

むかっ。とか、イラっとか。

よく目を凝らしたらけっこう言われんでもないなと思うことは多々ある。

今に目を凝らしてみると、けっこういろんなもんが落ちてるもんで、自分の疑問に思っているすべての答えは目の前にあると思う。

阿弥陀経の中には、「今現在説法」という言葉がある。

今この瞬間にも説法は満たされているという意味で了解してもいいじゃないかと思う。

「摂取不捨」というのも同じで、捨てるもんなんてなにもないと了解してもいいんじゃないかと思う。

ああ自分ってばつくづく浄土系。うふ。

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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。