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Title: 初心表明
いままでもうかれこれ10年くらい思ったこと感じたことを書き溜めてきて、(メインサイトからこのブログの趣旨にあっていそうな記事はこっちに移行しました。ほんの一部ですが) 時々改めて自分の書いたものを読み直したときに、改めて自分の中に発見ができたり、そしてなによりもモヤモヤをモヤモヤで片付けないで徹底的に文字に変換することで自分の中にあった形がなくてドロドロしたものも、ふわふわしたものがおぼろげでも姿がみえるようになったり、自分の中でそのひとつひとつの出来事にしっかり向き合えることができるようになったと思う。心の中を処理をしていくことがすごくうまくなったし自分の中にある主義も傾向と対策もだいぶ形になってきたんだと思う。 そうかと思えば同じことをなんども繰り返して、おんなじところでなんども苦しんでる自分を発見したりもする。 でもこんなに飽きっぽい自分がこんなに飽きもせずに、そもそもなんの為に書いてるんだろうという根本的な理由を思った時に、いままで明確な答えがだせずにいたし、友達にもなんで書いてるのかと問われてもうまい答えは思い浮かばないままだった。 でも最近少しづつ自分の中で書くということの意味や、自分の中でどういう気持ちからそれが生まれてくるのかわかった気がする。 そもそもは前に、自分にとって書くことはある種の自慰行為であると書いたけど。それはきっとそうだし、これからも変わらないんだと思う。書くことでバラバラになりそうなものを強引につなぎとめたり。時に自分を鼓舞したり。さらには慰めもする。それにもうひとつ。自分は「わからない」ということがすごくいやだから自分の中にあるもの。感じたことをもっとしっかりみつめたいし、そのまま流すことができないしそれと同時にその答えを忘れないように書きとめておきたいというのがきっとはじまりだったんだと思う。 そんなことをおぼろげながらも感じていたときにふと「聞法」という言葉が浮かんだ。 聞法とは法に聞くこと。 こうかくと。 またはじまった。仏教とか宗教はすぐに難しい言葉で煙に巻いたような理論をならべたてる。なんて思う人もいるかもしれないし、なんか一種のアレルギーみたいに宗教かよ・・・うわぁ・・・ と感じる人もいるかもしれない。 たしかに最近じゃ宗教なんてうさんくさいという構図ができてもなんらおかしくないし、むしろそれくらいの警戒心をもたないといけないのかなとすら思うし、自分自身そう思う。 寺にうまれてもそう思うし。いまだになんとなく自分の扱っているものが宗教なんだというのはぴんと来ない。 これは自分が感じることだけど、おもうに宗教っていうのは根本はほんとにシンプルなものなんだと思う。 シンプルなものをシンプルに伝えるということはものすごい危険性をはらんでいる。だから宗教はシンプルなものを伝えるためにあの手この手を考えてきたんだと思う。それがひとつの方便であり、天国であり地獄であるんだと思う。 宗教の根本はものすごく単純で簡単なこと。 くそったれ。世の中馬鹿ばっかりだ。とか。ああ、なんであの子はおれに振り向かないんだとか。お金がほしいのになんでないんだとか。なんでおれだけこんな気持ちにならなきゃいけないんだとか。あんなやつがいなければいいのにとか。 そんな些細なことも含め、心の中が自分の力ではどうしょうもなく苦しいときに処方する薬みたいなもんなんだと思う。 大抵の問題はそんなもの処方されなくても解決できるし、ビールでも一杯飲んですかっとすれば忘れられるし、ストレス解消してればこなしていけるさ。 というレベルだけど。 それでもビールをのんでもストレス解消をしてもどうにも拭い去れない問題というものは確実にある。どんなに外にその解決法を探してもみつからない問題が確実にある。 もうどうにも目が背けられなくて、内側に自分の中に矢印をむけないといけない瞬間はだれにでも必ずくるんだとおもう。 そのときにはじめて考え始めるんではなくて。 むしろ生きているということはその問題にぶつかってない人はいないということに気づいて矢印を内側にむけていきていくことが大切で。 自分周りでおきるどうにもならない問題を自分のこととしてうけてめていくのが宗教とか仏教の入り口なんだと思う。 そしてそういう気持ちを先人はどう考えてきたのかなと。何十年、何百年、何千年たっても人間の悩みや苦しみはそうそうかわらないと思うし、今日にいたる間での長い年月の間にそういう問題を命を懸けて考え抜いてきた人たちがたくさんいるわけで。 それを教科書のように参考にして今の自分におきかえる。 これが聞法のこころであって。 さらにいえば宗教に触れるということなんだと思う。 だから自分でなにもしないで、ずばりいわれちゃっても。天国から死んだ人が語りかけてきても。たかいお札をはったってなんの解決にもならない。 それは傷にバンドエイドをはって隠すだけで安心するようなものとなんもかわらないんだと思う。 話がだいぶそれたけど。 なにがいいたいかというと。 ここで書くことは布教でもなければ教化でもない。 自分自身が感じたこと。おもったこと。苦しんだこと。それを法にてらしあわせて、自分自身の聞法の記録をつくりたかったということです。 そんで自分がいままで続けてきた書くという行為がなんとなくっこにつながってきた気がする。 ということがいいたかったのです。
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