Title: 戦争と平和
2010.09.26

戦争と平和を考えるときに、やっぱ無条件に戦争はよくない!平和が一番!仏教徒なら当然そうでしょう。戦争反対に断固として意思表明すべきだ!

なんていうけどさ。

そういう話をきくといつも思いだす逸話がある。

コーサラー国の軍隊が、カピラ城(ブッダの祖国)を攻め落とそうとしたときにブッダは、行軍する途中の道で座して軍隊を止めたという。

そして2度目の行軍の時にも、3度目の行軍の時にも、ブッダは、行軍する間の道に座していたという。さすがにブッダ゙を無視して行軍するわけもできず、コーサラー国は何度もその道を引き返すわけだけど。

でも4度目の行軍の時にはブッダはそこにはいなかった。そして軍をすすめたコーサラー国はしシャカ族(ブッダの祖国)を滅ぼしたわけです。

この時弟子の目連さんが、神通力で行軍を止めようとしたら、ブッダはそれを制して、もういいのだ。といったという。

この3度しか座っていなかったことから、仏の顔も3度までということわざがあるわけだけれど、この逸話の真意は、すべての物事には因果があるということであり、因果といういうのは、人間の手におえるほど単純なものではないということなんだろうと思う。

ブッダが無条件に戦争は反対!仏教は平和が一番!だと思っていたのなら、神通力だろうとなんだろうとつかってでも、行軍を止めたんだろうと思う。

戦争とか平和を考えていると、本当の意味での仏教徒のとるべき姿勢とはどうあるべきなのか悩むし、その時に、この話はいつも自分の中でひっかかる。この話は現代でもそのまま通用する教えじゃないかと思う。

仏教は時に厳しい。そして優しい。

この3度だけブッダが座っていたというのが、なんていうか自分が仏教を好きな大きな理由なんだろうとも思う。

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Title: コリント
2010.08.08

キリスト教式の結婚式に出て、またアグレッシブな布教活動にさらされてきたわけですが、その中でコリント13章を朗読する箇所があって、

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。愛は自慢せず、
高慢になりません。礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を
思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。

と声に出して読んでみて。

ああ。愛だのなんてもんは、カウパー液みたいなもんだ。なんて書いた自分になんか妙な後ろめたさみたいなものを感じて、やっぱファーザーイエスはすげぇなと思ったりした。

行き詰ってどうしょうもないときに、まっすぐに愛とか説かれたらぐらりときて、たしかに、子どもみたいに無条件になれるような気持ちにもなるのだけど、でもどうしてもそれは、焼け石に冷や水をかけるようなもののような気がしてしまって、すぐに蒸発して、また石は発熱をしてしまうんじゃないかと思ってしまう。

もちろん、いつまでも主は水をかけ続けてくれるんだろうし、いづれその石が冷えるまでかけ続けるくらいのアグレッシブな布教をするのかもしれないけど。

でも。

やっぱり自分はどうにも素直じゃないし、天邪鬼なので、方法論の問題で仏教の方が向いてる気がするのです。

そもそもなんで石は熱いのさ。

熱い熱いって、その発熱はどこからきてんねん。

ようかんがえてみ。

とお釈迦さまがいうわけで。

自分は理屈っぽいから、そう言われた方が、冷や水をかけられるよりも向いてる気がするのです。

冷や水かけたって、石が発熱してたらまたかけなあかんやん。

そもそもほんまに石は熱いんかい?

そもそも熱いってなに?

といわれて、

それを反芻しながら自分に落とし込もうとして、
ベクトルを自分に向けようと右往左往していると、

親鸞さんがいうわけです。

発熱したくなくても、発熱してしまうのが人間ですねん。

ええねんええねん。それでええねん。

熱いままでええやんか。

それが生きてるってことやねん。

熱くても熱くなくてもええんん。

大丈夫や、どんなあんたでもあんたはあんたやでって。


そんで思うわけです。

おれ熱いまんまでもいいや。

な~もなも。って。


ああ。ありがてえ。


キリストさんと阿弥陀さんの違いがあるとしたら、

わかっちゃいるけどやめられないを許してくれるかどうかなのかもしれない。

真宗門徒はきっと最後の最後まで、もがいて、悩んで、自問自答して右往左往していくんだろうと思う。きっと納得してストン楽になっては、また自分の中に湧きあがるものに手を合わせて、善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をやとか思うんだろう。

それを繰り返すプロセスがなによりも大事なのかもしれない。

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Title: 仏教の役目
2010.07.06

この湿度と気温。ああ日本もアジアなんだな、なんてことを再認識する。

こないだあるお寺の方が、命の大切さを説くのが宗教の役目であるし、命の尊さ説くのが仏教の役目であるとおっしゃった。

でも自分はそうは思わない。

宗教は生命よりも大切なものがあるということを考えるためのものだと思う。それに仏教は生命の尊さを説くものではないと思う。生命が一番大切だという考えこそ、宗教や仏教を通して正さなければいけない考えじゃないかとすら思う。

こうかくと誤解を招くかもしれないけど、

生きていることよりも大切なこともある。

それは何かの大義名分があれば死んでもいいというのではないし、簡単に命を粗末にしていいということじゃなくて。生命至上主義になって、命を一番上に置いてしまうと、見えなくなってしまうことがあるということ。

延命の問題も、尊厳死の問題も、移植の問題も、輸血の問題しかり。

日々の生活の中で、人は生きることには必要以上にスポットをあてるのに、死にはあまりスポットをあてない、そんで生きてることだけが素晴らしい、長く生きれること、命があることこそが最高だという価値観を知らず知らずに刷り込まれる。

その価値観が疑いようもないものになると、平気で2つあるなら片方の腎臓をもらえばいいんじゃないかとか、死んだ人からなら角膜を移植すればいいじゃないかとか。豚から臓器をつくって移植すればいいじゃないかとかいう議論を平気でするようになる。

なんかうまく伝えられないんだけど。

なにがいいたいかというと。

統一された価値観に依るというのは危険なことだと思うということ。

例えば、生きてることだけが素晴らしい、長く生きれること、命があることこそが最高だという価値観を知らず知らずに刷り込まれた人は、きっと長く生きられない人をかわいそうだと思って、長く生きられることが幸せに決まっていると思うだろう。

もっといえば、お金があれば幸せだと思っていれば、途上国の子どもをみてかわいそうだと思うだろうし、アフリカの人をみてかわいそうだと思ってお金をあげれば幸せになれるんだと思うだろう。

健康なことが幸せだと思えば、病人をかわいそうだと思い、五体満足であることが幸せであると思えば、ハンディを背負った人をかわいそうだと思って、容姿がいいことが幸せだと思えば、そうでない人をかわいそうだと思うだろう。

他人の事ならかわいそうで片付けて、自分にそれがふりかかれば、なんて自分は不幸なんだろうと思うだろう。

なんでお金がないんだ、なんで病気なんだ、なんで五体満足じゃないんだ、なんで容姿が悪いんだ、なんでなんでと思うだろうに。

人間は価値観に支配されてる、自分の価値観でしか物事を判断できないし、その価値観に外れるものは拒絶するか、目をそむけるように生きている。そんであわよくばそれを人に強要したがる。

それをやめろといわれても無理だけど、せめてそれを知っているか知らないかが大事なんだと思う。

仏教がどこかの価値観にとらわれて、そこに重きを置くような考え方の片棒担ぐわけないじゃん。なんで仏教の役目が生命の大切と尊さを説くことなのさ。

そういうところに落ち込んで、なにかに偏ったりとらわれてはいけませんよ。というのが仏教だと思うし、むしろ世の中に平均的な価値観をつけて不平等を生みだすから、勝ち組とか負け組なんて言葉が生まれるんだし、その平均にならねばならないという閉塞感が、人から生きる活力を奪うんだ。

仏教はどこであれ、だれであれ安穏と生きられる方法を教えるものでしょう。

とかまで自分の中で話しが飛躍しながら悶々と帰ってきたわけです。

こういうことを思うたびに自分の中にある仏教が少しづつ形になってくる気がするのです。

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Title: 口蹄疫。
2010.05.28

最近ニュースで取り上げられていますが、宮崎県で、口蹄疫という感染病が広がり、何万頭という牛や豚が殺処分にされているそうです。

それを取材したとある番組の中で、宮崎県の畜産農家の人がインタビューでこう答えていました。

「殺処分に際して、いずれに肉になるんだといえども、手塩にかけて育てた子が、違う形で殺されてしまうのは苦しい、せめてお腹いっぱいにしていかせてあげたい」

それを聞いて、どういう形であれ、やはり命にじかに手が触れる仕事をしている人たちの言葉というのは、重くて響くなと思いました。

そしていろいろな報道の中で、各分野の各コメンテーターや政治家の方々が口々に議論を交わしていました。

口蹄疫がこれ以上広がるのは、宮崎の畜産業界の未来ひいては国益に関わることだから殺処分はやむなしとか、人間に感染することなく食べても問題ないのにそこまで大げさにする必要があるのかとか、国の対応は正しかったとか悪かったとか。

それを聞いていて、そういう話はとても大切なことで、保証も含め国がそういう体制をしっかりと築いていくことは不可欠なことだと思います。

しかし、そこだけにスポットをあててしまうのではなく、そこに生きる人や、現場でじかに命に手を触れている人たちの気持ちにしっかりと寄添っていくということもとても大切なことだと感じます。現場で命に触れている人たちの気持ちになれば、きっとなにが正しくて何が間違ってるかとか、それが正論かとか、感情的だとか理論的だとかそういうことじゃなくて。

ただ悲しいのだと思います。

命に触れてると、理屈じゃなくてただ悲しいしただ嬉しいし、

ただただなんだと思います。

ただ悲しい。

このただ湧いてくる感情に寄り添うことができて初めて何かを慈しむ気持ちや、なにかを愛でる気持ちというものに気づかされるのかもしれないと思います。

側面的な理屈でばかり物事を考えているとつい見失いがちな部分なのかもしれないと、自分自身、宮崎県の畜産農家の方の言葉に気づかされた気がしました。

最後人を支えるのも、心を動かすものも、理屈ではないなにかなのかもしれません。

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Title: お念仏と浄土
2010.01.22

五木寛之さんの「親鸞」という本の中に、

「そのこころは心ではなく情なのだ。浄土は情土なのだ、唯識で心はとけるが、情はときあかすことはできぬ」

という言葉がありました。

それを読んで感じたことですが、まず、浄土というところが、どういう世界なのかということは、阿弥陀経の中に、事細かに記されています。

抜粋ですが、例えば、

極楽国土には、七重の欄楯(欄干のような石垣)、七重の羅網(とりあみ)、七重の行樹(並木)があって、みな、これ四宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶)であまねく取り囲むとか。

極楽国土には、七宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶・赤真珠・碼碯・琥珀)の池がある。八功徳(澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・飢渇を除く・健康増進)の水が、その中に充満している。池の底には純ら黄金の砂が布かれているとか。

天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。

など一部抜粋ですが、具体的に極楽の様子が説かれているわけです。

いままで、自分の中では、極楽というところは、いいところなんだろうなぁ。だからお念仏を唱えることで、極楽にいくことができる。と考えていたことがあります。どうせ死んだあとにいくところがあるならいいところの方がいいなぁと。じゃあ、なまんだぶなまんだぶ。と。

でも思うに、それじゃお念仏は、極楽に行くための一種の方法にしかすぎないわけで、経典を読んで、頭で浄土を思い描いている限り、お念仏は方法論に陥りやすくて、それじゃ、本末転倒になってしまうのかもしれないと感じることがあります。

正直言えば、もしお念仏が方法論だとしたら、いまの現代において、お念仏したら極楽にいけますよ!といって極楽にいくことを心から望んでお念仏を唱えられる人はどれだけいるでしょうか、自分もそうですが、極楽なんて本当にあるんだろうか、そもそもお念仏したらそこにいける根拠なんてあるんだろうか、とか、阿弥陀仏とかってそもそもなんなんだ。と考えてしまうのが普通じゃないかと思います。

しかし真宗において大切な心は、その疑いの中にあるのかもしれないと思うわけです、その疑いというのは、頭のどこかでは、そういうものがあればいい。とか、すべてをすくってくれる存在がいてくれればありがたいけど・・・もしかしたらそうだったら・・・と気持ちも含まれているように感じるわけです。

法要や、通夜葬儀で、遺族の方とお話をする時に感じるのは、極楽の様子や、極楽がどこにあるかとか、そんなことや、もっといえば、自分が念仏をすればそこにいけるかどうか、ということはさておき、今、亡くなられた方が、極楽というところに行って仏様になっていると思えることに、安心することができるのかもしれないと思うわけです。

また、自分がどうしょうもなく苦しい時に、神頼みなんて言葉もありますが、そこに阿弥陀さんがいるからとか、もっといえば救ってくれる人がいるから、助けてくれ。というお願をするのではなく、そういう相手を通り越して、救ってくれるとか、救ってくれないとか、阿弥陀さんがいるとかいないとかに、関わらず、だれでもいいからなんとかしてほしいとか、思うことがあるわけです。

そう思った時に、冒頭の浄土は情土とはうまいことをいうなぁとおもったわけです。

大切な人がいいところへ行っていてほしい。とか、自分が苦しい時に、だれでもいいから何とかしてくれ!とか。そういう人間の根本的な心の中に、浄土というものの本当の姿があり、それを恋う気持ちをお念仏という形であらわすのかもしれないと思うわけです。

大事なのは浄土そのものなのではなくて、人が浄土を恋う気持ちによりそうことであって、救いを恋う気持ちによりそえなければ理屈ではない浄土というのはわからないのかもしれないと思うわけです。

また浄土を恋うときにそこにある。人間の本当の部分、なんで人間は極楽浄土を恋焦がれるのか、そしてそこには、浄土を恋わなければならない自分がいるという事実があるということに気づかされることが大切なのではないかと思います。

それを簡単に噛み砕いてみると、やはり真宗は山からおりた宗派なんだなぁとしみじみ感じるとともに、非僧非俗というのは、やはり簡単なようで難しいなと感じます。つい理屈や頭で、経典を理解してしようとしてしまいますが、それではわからないことがまだまだたくさんあるように感じます。

そして最後は目の前にいる人と、一緒に笑って一緒に泣きながら、その心にまっすぐによりそって生きていくことが大切なのではないかと感じるわけです。

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Title: 共有
2009.09.19

宗教や信仰を深めていくということは、感覚の世界だ。

いうなれば感覚の共有なのかもしれない。

夕焼けを見たときの感動を人に伝えるときに、自分にできるのは、夕焼けのところまで足を運んでもらうことしかできない。

その道筋を説くのが仏法なんだと思う。

それぞれの宗派がそれぞれの方法で、同じ感覚を目指しているようなものなんじゃないかと思う。

悟りも感覚の問題なんだろう。

夕焼けを見たとき。誰かを好きになった時、なんでもいいけど、自分の中に湧いてきた様々な感覚の中の1つとして、悟った時の感覚というのがあるんだと思う。

夕焼けを見たときの感動を伝えようと、赤だとか、すごい色だとか、どんなに説明しても、それは理屈で、なんとかそこでわかった気になっているか、わかった気になろうとしているのがほとんどなんだろう。

いままで悟りなんてものは自己申告じゃん。と思ってたし、そんなの意味あるのかい。なんておもってたけど、違うわ。

その感覚がどんなものかわからないけど、そういう人がいて、対峙したとしたら、きっと自分のところと同じところにいないのはわかるし、その人の行動や言葉にすべて、自分にない感覚を味わえるんだと思う。

それが言葉が通じようと通じなくとも。

例えば、めちゃくちゃきれいな夕焼けで感動した自分と、おんなじくらいきれいな夕焼けをみて感動した誰かとは、たとえば多くを語らなくてもわかりあえるし、

きっとこの色なの?と夕焼けを見たことない人に、赤い絵の具を渡されたときに、いやいやいや!と笑いあえるんだろうと思う。

それがつうじあうということなんだろう。

いま自分の中にある感覚が信仰の中でどのへんなのかとか、わかんないけど。

いま自分の中にある、気持ちや感覚に近いものを味わったことがある人となら、目でも言葉でも、きっとこの感覚で、マンガの話をしても、宗教の話をしても、車の話をしても、ゴルフの話をしても、わかりあえるんだと思う。

きっとその人と、真っ白なキャンバスを前にいっしょに大笑いできるかもしれない。

雨の日にずぶぬれになっても大笑いできる気がするし。

これがここにあるとしたら、これはここだよね。そしたらこれはこのへんじゃない?なんて、茶碗や湯飲みや橋を机の上に並べて大笑いできるのかもしれない。

感覚をわかりあうということは、なにを話しても端々にその感覚はにじみ出るし、そこに通じた同志ではわかるものというのがあるんだと思う。

これはなんでもそうだけどね。

ラグビーやったことやったことある人たちでわかりあえる感覚を、やったことない人にはわからないし、でもやった者同士では、ツーカーでわかるようなもんだ。

感覚を共有したものどうしでわかるツーカーの感じ。

ここ数カ月で自分の中でつながった、点と点はけっこう強固で、いっこうにほどけそうもない。むしろこれであっていてくれともおもうし、あっていてもあっていなくてもいいともおもうし、あってないほうがいいかもとも思う。

味わったことないこういう感覚が、もっとたくさんあるのかと思うとたまらんと思う。三昧の境地とかどんな気持ちなんだろうか。味わってみたい。

いままで自分にとっての善知識はなんなんだろうかと考え込んだことがあるけど、おぼろげにいま思うのは、自分にとっての善知識は、この環境すべてなのかもしれない。

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Title: すすむみち。
2009.09.17

自分が成長したなと感じるのは、人と関わる中で苦しんだときで、その中で喜んだときで、感動したときで、悔しかったときで、悶々としたときで。そういう体験が少しずつ自分を押し上げてくれてるような気がする。心がざわつくというのはありがたい。

毎回この時期に子どもたちが運動会の練習をしているのをみると、いろんな想いがこみあげてくる。最近思うのは、その子が、赤ちゃんだった頃とか、お腹にいるころから知っている子どもたちが、泥だらけになって真剣な顔で、走ったり、悔しがったりしているのをみると、ほんとうに人間というのはすごいなとおもうし、不思議だとも思う。

それに、何年もここにいて、何人も兄弟とかずっとみてると、ほっんとにここ一番の、へたれ具合とか、悔しがり方とか、感情があらわになる瞬間にでてくるものって、ほっんとに兄弟って似てると思う、同じものが流れているんだなということを思う。

世の中には理屈じゃ説明できない何かがたくさんある。あたりまえ、というものほど目を凝らせば感動するものないなと思う。この瞬間に感動できない事象なんてないんだろうと思う。

いいなあ人。

と書いてみたら。

思いだした。

まえに人はいいなあ。といったら、とある人から、あなたは誰かに裏切られたことがないだろうし、恵まれているからそういうことがいえるんですよ。でもそうじゃない人もいることを覚えていてください。と言われたことがある。

まさにピシャッと。

その時は、はい覚えておきます。といったもんだ。

最近思うんだ。

そういうことはたくさある。

命の話をしてもそうだし、人の話をしてもそうだし、例えば慈悲の話をしてもそうだ。

日々の生活に追われてて、人にも裏切られて、命がありがたいとか言われてもぜんぜんピンとこないし、そんなことよりも自分は自分が食べていくのが精いっぱいだし、あんたみたいにのうのうと生きてないんですよ。

お寺で話をきいて、わかってるんだけど、なかなか目を向ける時間なんてないんですよ。っていうことはよく言われる。

本当にその通りで、明日食べてくのが必死であったり、子育てしてたら、、生きていくことが精いっぱいで、そんなことを考えている余裕なんて普通はないだろうし、むしろ宗教や信仰がなにをしてくれるんだい。

よっぽどお金でも配ってくれた方がありがたいわい。

といわれればそうかもしれない。

たしかに自分はのうのうといきてるし、ヘラヘラいきてるし、恵まれてるし、生活に追われてはいない。だから、その人たちの気持ちを心からわかることはできない。わかりますよ。なんていえないよ。そうじゃないもん。

でも自分がそれでもなんで命の話をしようと思って、慈悲の話をしようと思って、それでもやめないぜ。と思えるのは、

自分はまだ若いのかもしれないけど、きっとお寺に生まれて、大好きなおじいちゃんやおばあちゃんみたいな人がたくさん死んでいったり、時に若い人の死にも立ち会ったり、そうやって人が死んでいくのを見てたり、年老いて、病気になったり、ボケたりするのもみてきて、それを小さいころから、目をそむけたくてもできない環境に自分なりの方法で適応しようとしてきたからなんだと思う。

そういう環境にいることがいやでしょうがない時もあったけど、今になって思うのは、これがお坊さんってことなんだなと思うし、お寺に生まれるということなんだと思う。

それに残された人たちを見てくる中で、大好きな人の死を乗り越えることがどういうことかをまざまざとみてきて、正直、自分がそういう話をしたり、仏教にここまで感情移入できるのは、なによりも自分が死ぬのが怖いからで、老いたくないし、病気にもなりたくないし、それが怖くて、大切な人の死を乗り越えることができるか不安なんだな。だからそれをなんとか払しょくしたくてなんだと思う。

そんでこの、老いること、病に伏すこと、死ぬこと、は決して自分だけがぶつかっているわけじゃなくて、生きてる人みんながぶつかってる問題だから、生活に追われてても、だれかに裏切られて打ちのめされてても、そんなことお構いなしに、やってくるもんだ。

いくつだろうとこれをいま読んでる人全員。それにぶつかって、「はいこんにちは」ってなってどうしょうもなくなったときに、

そういうときのために仏教っていうのがあるんだよ。

それをどうやったら受け止めていけるか考えて、考え抜いたお釈迦さんって人がいるんだよ。

でも正直自分はそれ試せないし、たぶんそのまんま受け入れるのは無理だわ、だから

自分はね親鸞さんのこの言葉があってよかったと思うんだよね。

それに唯円っていう人がいてね。極楽とかよくわかんないっていってんだよ。

他にもたくさん、何百年も何千年も前からね、そういう問題に向き合ってた人がいてね、それをお経っていうものにまとめたんだよ。

いきなりこれ渡してもこまるだろうから、自分なりの解釈を話すね、これはかくかくしかじかでね。

って

話すのが法話なんであって。

それがお坊さんの仕事。

そんでこれが自分のすすもうとしてる道なんだろうな。

お坊さんは社会的に有益でなければいけない。と最近よくいわれるけどね。

これ1本で有益だと認められなきゃ意味ないと思う。

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Title: 死にかけてますがなにか。
2009.09.15

もしいま突然。

「おいそこの死にかけたおじさん」

と言われたら。むかっとすると思う。

でもそれは全部事実なわけだ。生きている以上、死にかけてない人なんていないし、自分はもうお兄さんでもない。

でもそれにむかっとするということは、

自分は死にかけてないし、おじさんでもないと思いこんでいるからなんだ。

この思い込みを、仏陀は妄想と呼んで、そこでむかっとする気持ちを苦しみと呼んだ。そんで、その苦しみを解消するために、物事を正しく受け止めて、事実を正しく見なさいと言った。その物事を正しく見ることを智慧というと言った。

むかっ。とか、イラっとか。

よく目を凝らしたらけっこう言われんでもないなと思うことは多々ある。

今に目を凝らしてみると、けっこういろんなもんが落ちてるもんで、自分の疑問に思っているすべての答えは目の前にあると思う。

阿弥陀経の中には、「今現在説法」という言葉がある。

今この瞬間にも説法は満たされているという意味で了解してもいいじゃないかと思う。

「摂取不捨」というのも同じで、捨てるもんなんてなにもないと了解してもいいんじゃないかと思う。

ああ自分ってばつくづく浄土系。うふ。

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Title: 方便
2009.07.06

人間は方便を通さないと真実にはいきつけないなというのを今回三願転入について考えているときに改めてそのことを再確認した。

前にも書いたけど、1つの例だけど、家族のコミュニケーションがぎくしゃくしてるとして、家族会議を開いたらそれで解決するかといえば必ずしもそうじゃない。そもそも家族会議が開けるような家ではそこまでぎくしゃくもしないだろうし。

そこで真冬にエアコンをぶっ壊して、リビングにコタツを1つおくことでなにかが円滑に回りだすということはあると思う。これがある意味方便ということなんだろうと思う。

ベストキッドという映画がある。へなちょこダニエルさんに、日系人のミヤギさんが空手を教えるという映画なんだけど、それをふと思い出した。

ダニエルさんがミヤギにはじめて空手を習うときに、ミヤギさんは、車のワックスがけをしてきなさいという。ダニエルさんは言われるがままにそれをする。そして次には壁のペンキ塗り。そこでダニエルさんは切れるわけだ。こんなんで強くなれるわけないだろと。

そこで悪い奴との戦いになるんだけど、そこでやられそうになった時に、ミヤギが駆けつけて横からいうわけですよ。ダニエルさんワックスかける!ワックスふく!すると飛んできたパンチを軽々とその動作でいなしていくわけです。

そりゃ映画だよ。映画だからだよ。でも方便というのはそういうことなんだと思う。

人間は本当に深い部分にはそれだけをまっすぐに考えて、それだけに突き進んでたら見えないんだと思う。

たかがのらしごとでも。

たくさんの人と1つの作業するとよくわかる。その人の気の使い方、声のかけ方、視野の広さ、つかれてくれば本当の表情とか。それにお互いそういう中でしか育まれないものってあると思う。だから楽しいはだれかが与えてくれるものでもないし、楽しいはなにをするかということよりも大事なことがあるんだと思う。

しかし嘘も方便って、方便の意味がわかるとものすごい深い言葉だな・・・

まわりくどいけど、でも自分はこうおもうぜ!なんでわかってくれないの?はまだまだそこには我執があるってことか。それをどうやったらわかってもらえるか、そのためにはまずどの順序ではいるか。ああなんかドッキリを考えて布石をちりばめてる時ににてるかも。ようは直接的じゃだめな時もあるということか。

そう考えたら少し前に感じたことが今つながった。

少し前まで祈るだけで世界が変わるならもう世界は変わってるはずだ。なんて吠えてましたが、あれもあれからよくよく考えてみたら、祈ることではたしかに何もかわんない。超能力とかないし。

でも何かを祈ろうと思う気持ちを持つことで、手の届くところにいる人や、自分の周りだけにだけでもすこしいろんなことに寛容になれるんじゃないかと思う。

ようは祈るという行為に意味があるのではなく、祈ろうと思う自分に意味がある。だから祈りというのはベクトルは内側にむいてるものなのかもしれないということに気づいて目からうろこが落ちて、いままでの自分の視野の狭さと、みえていなかった世界と感覚があったことにうれしくもなった。

事実だけを、目見えるものだけを捉えるんじゃない。そこから。そこを通して自分が何を得られるかということは無限の可能性で、むしろこれは飛躍しすぎかもしれないけど、一つの事実にすべてがあるというところまで行きつけることもあるのかもしれない。

それこそが拈華微笑の世界か。

しかし深いな。深くて深くて。

しかしこんなことを何百年、何千年の間でたくさんの人が生涯をかけて考えてきて、そしてそういう人たちが一生をかけて、生涯をかけて残した経典がいまの世の中まで残ってるんだからすごいことだよな。人間ってすごいなぁしかし。

ありがたい。お経の本は粗末にできないね。お寺に育つとついつい慣れてしまってその辺がおろそかになってしまうけど反省しなきゃ。

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Title: 三願転入
2009.06.25


「三願転入について」

三願転入ということについて考える機会をいただいたので自分なりにまとめてみたいと思います。

まず三願転入というのは教行信証の化身土巻に書かれている部分です。

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。

この中には親鸞聖人自らの心の動き、変化が顕著に書かれているわけです。ただこれだけ読むととても難しいそうに感じますが。これを自分なりに解釈して紐といていこうと思います。いまの自分の中のご領解ということで読んでいただけたらと思います。

まず論主というのは世親のことを指し。宗師というのは善導のことを指します。

論主の解義と、宗師の勧化という部分の「解義」と「勧化」という問題に触れますとここだけで長くなってしまいますので今回はここには触れずに、解釈をしますと、ようは親鸞聖人は世親と善導に依って「久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る」となるわけです。

「双樹林下」とは、お釈迦様が入滅する時、近くに2本の木があったのがその名前の由来らしいですが、つまりはお釈迦様の入滅を指します。お釈迦様の入滅はいうなれば、悟ったものの穏やかな死といいますか、「やることはやったし、思い残したことはない」といって死んでいくという悟ったものの理想的な死の迎え方です。

しかし人間というのはそんな穏やかな死を迎えるということは難しいわけです。むしろいやだ!死にたくない!というのが自然です。

だから親鸞は言い換えれば、お釈迦様の悟り、お釈迦様のように死んでいくなんて無理でしょう。人間がそこにいたるなんてことは難しい。お釈迦様だからできたようなものの・・・ということではないかと勝手に解釈します。

ではどうしたらいいかということになるわけです。

ここからが私の解釈ですが、親鸞聖人の生き方に照らし合わせてこの三願転入を考えてみたいと思います。

まず先ほども書きましたが、お釈迦様が悟りを開かれたらしいぞと。そして穏やかに入滅をされたらしい!という話をきいて。多くの人がわれもわれもとそこを目指します。それ比叡山だ!比叡山で修行だ修行!というわけです。

親鸞聖人も長い間比叡山で修行をされました。

このあたりが三願転入の三願のうちの「19願 至心発願の願」を指すのではないでしょうか。経典でいえばここの教えの背景には観無量寿経があると思います。つまりは、「わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」という仏陀の教えにスポットを当てるわけです。

そして功徳を積んでそこを目指すわけです。

しかしここで問題が、功徳を積みたくても積めない自分にぶつかるわけです。さらには弱い自分が浮き彫りになるわけです。人間いきていれば食わなきゃいけないし、楽もしたいし、この現代では功徳だけを積んで生きていくなんてできない・・・

こりゃもうだめだ比叡山をおりよう。おれは弱い人間なんだ・・・ああだめだ・・・おれは駄目な奴だどこかに引きこもってしまおう。と心を悩ませて親鸞聖人も山を降りられたのではないかと思います。そしてほんとに六角堂にこもるわけです。

この六角堂では久世観音がでてくる話などあるのですが、そこはちょっと今回はおいておいて、そして一人悩んだ親鸞聖人・・・もうお坊さんやめようかな。とか思ったかもしれません。自分なんかが悟りを開くなんて・・・と。
そこで右往左往しているときにお念仏に出遭うわけです。いいかえればここで阿弥陀仏と出遭うわけです。

ここで19願と20願の変わり目かもしれません。自力で修行しても功徳を積んでは崩れ積んでは崩れ・・・そこで阿弥陀さんが言うわけです。

「わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」

言いかえれば、大丈夫ですよ。そういう弱い人間でも。とにかく私の名を呼びなさい。そしたら救ってあげますよ。私の住んでる極楽浄土へ想いをめぐらせなさい。そして10回でも私の名前を呼べばそれで全部チャラにしてあげますから。ということではないかと思います。

ここの背景にあるのは、阿弥陀経です。阿弥陀経には極楽浄土の様子が事細かに記されているわけです。極楽を想像して私の名前を呼べばいい。というのが20願の指すところではないかと思います。

それに出遭った親鸞聖人は、涙がでるほどありがたかったと思います。そしてお念仏の道へ入っていくわけです。とにかくお念仏だ。念仏を唱えよう。

なまんだぶつなまんだぶつ・・・・なまんだぶ・・・

なまん・・・だぶ・・・

やっと自分の救われる道を見つけた!と意気揚々とお念仏を長い間唱えているときにふとまたダメな自分が顔をだしてきて頭をよぎってしまうわけです。

これで本当にいいのか・・・お念仏さえ唱えたら極楽にいけるというけれど、本当かな・・・しかも極楽にいけるはずなのに・・・私は全然うれしくないぞ。そもそも極楽とは本当にあるんだろうか・・・

と親鸞聖人感じてしまうわけです。とても感受性のすぐれた素直な人だなと親鸞聖人のお人柄が偲ばれますが、お念仏に出遭い真宗門徒として生きている自分も含め、ほとんどの人がまだここの段階で足踏みをしているのではないかと思います。

そこでハッとするわけです。阿弥陀様があれだけ救ってくれると言っているのに・・・極楽なんてすばらしいところを用意してくれているのに、自分はそれすら疑ってしまう。本当にダメなやつだ。これじゃ比叡山を降りたときと同じじゃないか・・・ああもう自分は救いようがないな。阿弥陀さんももう愛想つかしちゃうだろうな。と落ち込むわけです。

するとにこにこして、いやニヤニヤしながら阿弥陀さんが言うわけです。

本当にあなたは駄目な人だ。どうしょうもない。と追い討ちをかけるようなことを言うわけです。でも最後に一言。

でもね。それが人間です。そんなことは想定の範囲内ですよ。
あとは全部まかせなさいと。

するとその言葉にお腹の底から何かが湧いてくるわけです。おおお阿弥陀さん・・・・と涙まででそうな勢いです。

この「阿弥陀さん」という声。これこそが真実のお念仏になるわけです。はじめに私の名前を唱えなさいといって呼んだ「阿弥陀さん」とは全くの別物です。

そしてさらに気づくわけです。ああ。極楽を用意してますよ!しかも名前さえ呼べば救われますよ。とあえてそんなわかりやすいことを用意したのは、それでもどれができない。そんな簡単なことすらできないということを自ら気付かせるためだったんだ!!というわけです。そこであの極楽浄土というものが方便であったとも気付かされるわけです。

いままでのお念仏はつまりは難思往生、つまりはそこはまだ自力であり、真実ではなく方便の1つであったわけです。

ここで初めて18願に至りその心をお腹の底から味わうことができるのではないかと思います。この20願から18願へのかわりめをまさに聖道浄土のかわりめありというのかもしれません。

「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」

ああ理屈じゃないな。阿弥陀さんの懐は自分が思ってたよりも深く、自分の想像できるようなもんじゃなかったんだ。奥が深すぎるな。結局は掌の上だったんだと気付かされ難思議往生に至るわけです。ここの背景には大無量寿経というお経があります。

つまりはもうお任せするしかないんだな。理屈こねるのをやめよう。考えても考えても所詮すべては阿弥陀様のおはからいの中なんだということに深く気づかされるということではないかと思います。そしてすべての出来事は阿弥陀さんのおはからいなんだと思うことですべての出来事にはもう意味があるわけです。そしてそこに感謝の念がわいてくると。

ここまで考えましてもう一度冒頭の一文

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。

なんとなくいままでの流れをみますとはじめよりもすっと自分の中に入ってくるような気がします。

最後は理屈こねてるんじゃないんですね。本当にこの三願転入というものを紐とくに、親鸞聖人という人のお人柄、また真宗の奥深さというものに素直に感情移入できるような気がします。またお念仏に生きていくという上でこの心の変化、この順序というのはとても重要な部分ではないかと感じます。

自分なりのご領解ではありますが、三願転入について述べさせていただきました。

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Title: 脳死問題について
2009.06.22

脳死と臓器移植の法案が衆議院で可決され、自分の周りでもたくさんのお坊さんが議論をしています。つい先日、あるお坊さんが、もっと医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで活発な議論をすべきだ!と言っているのを聞きました。しかし自分の考え方の中ではこの議論にお坊さんは関わるべきでないと思います。

脳死は人の死かどうか。医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで 活発な議論がなされたら答えの出ることなのでしょうか。

どうしても自分の中で人間というものの凡夫たる所以を深く省みるとどうしてもこの議論をして、法律を改正できたら、改正されると世界から苦しみが減るのかと思ってしまうわけです。この法律がしっかりした議論がされて制定された前と後で人間の苦悩の数は変わるのか。

そもそも人の命というもの、または死というものにラインを引く、言い換えればそれを理解しようとする、理解しようとするということは自分の価値観の中で判別するということです。それをできると思うこと自体が人間の苦悩であり凡夫たるゆえんではないかと思ってしまいます。

誰かにとってはその法律が制定されれば苦しみが減り、たくさんの命がすくわれるかもしれません。でも誰かにとっては同時に新たな苦しみを生みだし新たな問題を生み出すんではないかと考えてしまいます。A案でなく他の案、またはここにあがっていないなにかほかの法案で人を幸せにして苦悩を消すことができるのかなと、こういうともともこもないんですけど・・・どこを選んでもどこかに苦悩の種を残すということは選ぶことが正解ではないのかと思ってしまいます。人間が理屈で理論をするときに、人間が世間の物差しでなにかをはかるときにはどうしてもどこからみても完璧ということはありえないと思うからです。仏教の価値観というものは誰にあっても普遍的なものであると思います。

仏教の目的というのはまずは自分自身が仏教によって救われるかどうかではないかと思っています。脳死は人の死かどうか。という議論に宗教者がはいってああでもないこうでもないということ自体が仏教の本来の目的と少しずれているような気がしてしまいます。仏陀の毒矢の例えがありますが、理屈ではないところの部分ではないかと感じます。

仏教の目的は苦しみの種を減らすことです。どういう形であれどこかで苦しみを減らしてもどこかで苦しみが増えるような議論に、自分はジレンマを感じてしまうわけです。そこに自分がどうしても加われない気がしてしまうんです。なにかもっと根本的にやらなきゃいけないことがあるんじゃないかと。

仏教の根本はその人間の根源的な部分に関わることだと思います。仏教っていうのは自分の体温で世界の温度をあげるような途方もない作業かもしれません。法律をいますぐかえればいいというのではなく、自分はこれから法律をつくっていくであろう人間や、自分の手の届くところにいる人たちだけでも仏法に触れる機会があってその中でなにかを感じてもらえたらなにかがかわるのかもしれないと思います。というかそれぐらいしかできないんですけど。

現代の抱える様々な問題とその議論は、仏陀が死んだらどうなるんだと問われた時にそんなのわかんない。と答えたときの議論に似ているような気がします。

自分にできるのは脳死の場面に立ち会うことになった遺族が、死というものをどういう形であれうけいれられる、真宗的な言い方ですがそれこそ阿弥陀さんのはからいにお任せしようと思えるような種をまき続けていくことであり、まずは縁のあるところ手の届くところに仏法の種をまくことだと思います。

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Title: ひそうひぞく
2009.06.17

忙しいなんて言い訳にならないですが。

アリストテレスやプラトンやアルキメデスやソクラテス達が星と星をつないで星座を作れたのも、無知の知を思いついたのも、お風呂の水があふれるのをみて質量の法則をおもいついたのも、たくさんの崇高な思考や哲学を生み出せたのは彼らには十分に自分と向き合える時間があったからだと思うことがあります。

当時は身の回りのすべてを奴隷にやらせてたんだからやることと言えば考えるくらいしかなかったろうに。

余裕というと弊害があるかもしれないけど、何もしていない時間を余裕と呼ぶならばそういう時間がなければ生み出せないものがあるのかもしれない。

それは自分のことであったり。

人間のことであったり

生きるってこと。

生死の問題、生老病死の問題。

現代の一番大きな問題は選択肢の多さと娯楽の多さだと思います。

なにもなければいやがおうにも目を向ける先は、四季であったり、風や空かもしれないし花かもしれない。そしてそこから対比される中で自分自身や人間に目をむけられるかもしれない。そこから生まれる感情というのはたくさんあると思います。

でもいまはとりあえずテレビをつける。とりあえずパソコンをたたく。とりあえず携帯をいじる。ゲームをする。とりあえずできることだけでも数え切れないほどある。

その時間に暇だったり無駄かも知れないけどなにもしないでいたら気づけることがあるかもしれないのに。なんにもしてない時間が現代人にはどれだけあるのでしょうか。自分や人に目を向ける時間を持ってる人がどれだけいるのでしょうか。

宗教離れも命の尊さに気づきにくい要因の一つにそういうこともあるのではないかと思います。

末法の世とはよくいったもので人間は抱えるのは簡単なのに手放すことは容易にできない生き物なのに、次から次へ抱えたくなるようなものがあふれてくる。

だからどこかで抱えるのをやめないといつまでも本当に大切なものは見えないのかも知れない。 手放すことで得るものがはかりしれないってことに気づけないまま死んでしまうかもしれない。

そう考えると一番強い人間はなにも持ってない人間なのかもしれない。

「すべてを捨ててしまおう」「捨てる心さえも捨てた」という一遍上人の心がすこし了解できるような気がします。

現代において自分を保って生きるってことは本当に難しいことだと思います。

なんで生まれてきたのかとか。

人は死んだらどうなるかとか。

なんで太陽は明るいんだろうとか。

地球ってなんだろうとか。

そんなことに疑問が浮かびそうになってもテレビのスイッチを入れればそんな疑問を一瞬でかき消す。

自分でなにかを手放して、何かに線を引かなきゃ一生見えないものがたくさんあると思います。どんどんとかき消されていくものがたくさんあるんだと思います。

そのかき消されたものこそが生きていく上ではなにより大切なものだったりすることがあります。

うちの寺で寝泊りをしていた曽我先生が、もう娑婆の話は十分ですわっていったのがなんとなく素直に了解できる気がします。

だからといってすべてを捨てることはできない。捨てることはできないなかで、なにが本当の意味で正しく必要であるのか、考えることをやめないこと。

これも一つ非僧非俗の精神なのかもしれないと思います。

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Title: いただきます。
2009.06.03


「いただきます」

幼稚園でも給食がはじまり、子どもたちはお昼ご飯の前にみんなでそろって手を合せ「いただきます」といいます。そんな光景をみていて、ふと子どもに尋ねてみました。

「いただきますって誰にいってるの?」

そうしたら子どもがいいました。

「お母さん」

「どうして?」

「だってお弁当作ってくれたから」

こんな会話をしました。

なにげない会話だったのですが、しばらくしてそのことを思い出してふと感じたことがあります。たしかにお弁当を作ってくれた人にたいする「いただきます」はすごく大切です。しかしそれだけではなくそれともうひとつ忘れてはいけないのが命にたいする「いただきます」ではないかと思いました。

魚の命をいただきます。

動物の命をいただきます。

野菜の命をいただきます。

いただきますは、命をいただきます。という意味もあるんだと思います。いまはスーパーでは魚も肉も切り身で売っていて、水族館で泳いでいる魚や牧場にいる牛と、自分の食べているお弁当を結びつけるのが難しい世の中です。

でも人間が生きるということはたくさんの命をいただいてはじめて生きていけるわけです。そこに気づけてはじめて湧いてくる感情というものはたくさんあるんだと思います。愛でるということ。感謝するということ。

そういう大切な心の一つ一つはをしっかりと子どもたちに伝えていかなきゃいけたらいいなと思いました。

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Title: ばらばらでいっしょ。
2009.05.17


幼稚園ではでは始業式も入園式も終り、いよいよ新しい子どもたちがたくさん幼稚園にやってきました。3歳の子どもたちのほとんどはいままでずっとお家にいたわけで、いうなれば生まれて初めて社会にでたわけです。

まだ幼稚園になれなくて、毎日泣いていたり、友達と喧嘩をしたり、園庭をふらふらしてる子どもがいたり、本当にこの時期に園庭の様子をみていると、ほんとうにいろんな子どもがいるなぁと感心します。一言で言ってしまえば個性というものなんでしょうが、まだ生まれて3年しか生きてきていない子どもたちなのにこんなにもたくさんの個性があるものかと驚かされます。

一日中砂場で遊んでいる子、絵本が大好きな子、植物が好きな子、虫が好きな子、運動が好きな子、泣き虫な子、すぐに怒る子、すぐにいじける子、何もしない子、給食を食べない子。

こんなにたくさんの個性、言い換えればこんなにたくさんの違う子どもたちが、1つの園庭でみんなで遊んでいるわけです。

そんな光景をみていて感じたのは、本当にみんなそれぞれの価値観をもっていて、その価値観のどれにも優劣も正しいも間違ってるもないはずで、それはそれであるがまま素晴らしいことなのに、つい大人になると自分と価値観のあわない人を批判してしまったり、あの人はちょっと変わってるよねなどと、とさも自分の価値観だけが正しいかのように、ふるまってしまい、それを押し付けようとしてしまうことすらあるということです。

また現代では情報が氾濫していて、勝ち組負け組なんて言葉が生まれたりしていますが、気づかないうちにたくさんの価値観や優劣を刷り込まれがちです。

しかしみんなそれぞれが個性をもって生きているということをしっかりと自覚して、それぞれみんなが自分というその個性を大切に、ひいては自分自身を大切に生きていくということは大切なことだと思います。バラバラで一緒というキャッチコピーが京都の本願寺の壁に貼ってありましたが、バラバラで一緒。違いを認める心というのはとても簡単なようで難しいつい忘れがちな心だと思います。

それぞれがそれぞれみんな尊く、それぞれの命がみんなそれだけで尊い。天上天下唯我独尊というと自分が世界で一番偉いという解釈をされてしまうことがありますが、言い換えればまさに、バラバラで一緒、この世のすべての生きとし生けるものすべてにやどっている生命1つ1つがそれだけでそのまんまで尊い。言い換えればたくさんの理屈や価値観に振り回されるて人を判断したり優劣をつけたりするのではなく、この命、この身体はそれぞれがみんな自分と同じように尊い存在だということに気づくということが大切だということなのではないかと感じます。

まず自分の尊さに深く気づき、命のありがたさに気づかされるということが、同時に他人の命の尊さにつながるということは、本当に現代に起きる様々な問題解決の第一歩のような気がします。


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Title: さくら。
2009.04.06


いよいよ本格的に暖かくなってきて春本番といった感じになってきました。先日上野を散歩してきました。不忍池の周りの桜も満開に近く、たくさんの人で賑わっていました。後から知ったのですがその日は20万人近くの人が上野公園に花見に来ていたそうです。

ほんとうに日本人というのは桜が好きなんだなぁとしみじみと感じます。そんな自分も桜が大好きです。桜という花は昔から日本を代表する花ですが。なんで日本人というのはこんなに桜が好きなんでしょうか。

桜の花は満開を迎えたときももちろんですが、桜は散り際こそが美しいとよくいいます。桜の美しさというのはその花の美しさだけでなく、花盛りは短く、そして可憐に潔く散っていくという桜の姿にもあるような気がします。日本人は昔からその姿に自らの人生を重ね合わせたり、またその無常観を無意識のうちに重ね合わせているような気がします。

桜はあっというまに満開になって、そしてあっという間に散っていきます。そして桜は散るからこそ美しい。その瞬間をみんな目に焼き付けようとたくさんの人たちが花見に出かけるわけです。しかしそう考えますと、たしかにこれは私たちの人生でも同じなのかもしれません。命の時間が数週間なのか数十年なのかの違いだけであって、いつか散りゆくことは人間も桜もおんなじです。散るからこそ、いまこの瞬間の輝きが増すというのもおんなじような気がします。

散るからこそ美しいというのであれば、いま自分の命がここにあるのもいつか散るものであって、今日かも知れぬ明日かも知れぬ命であるわけです。桜が散ることは当り前のようにわかっているのに、自分の命が散ることはつい忘れてしまいがちなのが人間です。

わが身の無常観をしっかりと自分の中に感じ自覚することではじめていまこの瞬間の重さ、いまのこの瞬間「いまここ」に感謝の気持ちが湧いてくる。その心を報恩感謝というのかもしれません。「いまここ」にあるすべてに感謝の気持ちが心のそこから湧いてきたときに口を衝いて出るのが「南無阿弥陀仏」なのかもしれません。

西行法師は「願わくば 鼻の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」という句を詠みました。この時期に満開の桜の下を歩いているとその気持ちがわかるような気がします。

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Title: 信じる。
2009.03.09

信じるとは一言で言うなら期待なんだと思う。さらにいえばそれは希望であり、形をかえた願望でもあると思う。願望とはいいかえれば欲であるわけで、結局はきりがないものなんだと思う。

一度信じた結果になれば次も、次も。それが人間なんじゃないかと思う。どこかでそれを断ち切らなければ信じるも苦しみになる。

信じるということは、自分の中にある模範解答にそれを照らし合わせているにすぎないだけであって、その模範解答を生み出す自分の価値観に依っているにすぎなんだと思う。

信じるを生み出しているのはあくまで自分自身。自分自身の心が、脳が、なにかを補うために生み出している1つの妄想なんだと思う。

いうなれば信じるという言葉で自分の大事な部分、深い部分を覆い隠してるだけであって、信じるなんていうものは本当はどこにも存在してないんだと思う。

きれいに思えるから、それを掲げれば大義名分なようにきこえる言葉というものこそ本当の意味で正しくとらえられなくなってしまうということがある。

正義・愛・希望・信頼

それを生み出しているのはあくまで自分自身。その価値観が絶対正しいなんて保証はどこにもない。そして世の中に変わらないものなんて1つもない。

どんな理由をみつけようとしても、どんな可能性をさがそうとして、自分の手の中にないものを思う通りになんてできないし。ましてやとどめておくなんてことはできない。それが気持ちならなおさらで、それがまぎれもない現実。

仏法の生み出す言葉は時に乱暴で、時にものすごく冷たいように感じることがある。でも思うにそれこそ人間が正しい事実から目をそむけたいだけなんだと思う。

手を離すまでがきっと大変なんだと思う。手を放してみるとたいしたことなくて、むしろ手を放して初めて自分へ、そして人へ本当の意味での温かさを持つことができるんだと思う。自分自身がなにかに対して半身でいるのに、だれかに向き合えるわけがない。自分が正面切ってたってはじめて誰かにもちゃんと向き合えるんだと思う。

ある人が、両手にたくさんのお弁当を抱えてると重くてしょうがないのに、全部食べたら全然重くない。重さは変わらないのにね。おもうに仏法もそうなんじゃないかと思う。といっていた。

ほんとにそうだと思う。

最近、仏教に触れれば触れるほど、その言葉の厳しさというかストレートさに、これをよく初めに思いついたときに人に話してわかってもらえると思ったなと、変なところで仏陀に感心する。

仏陀の話を何人かで集まってすると必ずそこにいる人の中から。人間くさくてもいいじゃないですか、振り回されても、騙されてもそれでも信じても、そういうものが人間なんじゃないですか。

仏陀のいうことは間違いないし、実践できたらすばらしいけど自分には無理です。信じるということが願望でも、それでもそこにすがってしまう自分はどうすればいいんですかね。という意見が必ずと言っていいほどでる。

そこまで聞いてる人が感じてくれれば、そこから親鸞や阿弥陀さんの話ができる。真宗の話ができる。疑問でも肯定でも否定でも、なんでもいい。なにか声をだしてくれればいくらでもそこから深い話ができる。声にするということは大事なことだ。

やっぱり仏法も、真宗も、なにごと宗教というものは生で人と向き合う中で育まれていくものだと思う。お寺というところはそういうところでありたいと思う。

最近、たくさんの若いお坊さんが真剣にがんばっているのをみてすごく刺激になる。自分自身もがんばんなきゃと思うのと同時に、がんばれ仏教。と思う。

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Title: 生死
2009.02.27


こんなに本格的に雪がふったのはいつぶりだろう。

寒いのは苦手だけど雪はいい。雪が降らないと思いだせないことや雪が降らないと感じられないことがたくさんある。

あたたかくなったり急に冷え込んだり、温度差があると人間の体にはやっぱり目に見えない部分でもたくさんの負荷がかかってるんだと思う。温度差があったり、俗にいう季節の変わり目には亡くなる人が多い。お寺にいると本当に肌で感じることの1つに命と気候や季節の関係というのがある。ああこれは通夜葬儀がはいるだろうなという予想は大方外れることはない。

お寺にいてそういうことを肌で感じて、たくさんの人の死に立ち会ってきてるとはいえ、数日の間に、何人も親しかったおじいさんやおばあさんが亡くなっていって、この間笑顔で話したばかりの人たちの死を目の当たりにすると気持ちの整理をつけるのに時間がかかる。

人は誰かの死を通してしか死というものを肌で感じることはできない。死を目の当たりにするたびにああ人間は確実に死ぬんだなと当たり前のことがお腹の中にず~んと響いて、そのおじいさんやおばあさんが亡くなっても世界は何事もなかったかのように回っていくことになんか、つめたい水を頭から浴びせられたような気分になる。

原始仏教の経典の中で仏陀は妄想という言葉をよく使う。

生きていると日々の生活のことや、仕事のことや、友達のことや、大切な人のことや、ほしいもののことや、おいしい食べ物のことや、そういうことばっかりを考えて生きている。でもそれは一種の妄想の1つであって、そういうことを考えているということは同時に自分自身や、生きているということ、命とか、簡単にいえば生老病死の根源的な問題に向き合っていないなによりの証拠だという。確実に目の前に迫っている問題を素通りしてるにすぎないという。

これをすぐには腹からわかることは難しいけど少しづつその言葉に質感を感じることができるようになってきた気がする。

どんなに着飾っても、若くても、楽しい仲間に囲まれてても、大好きな人がいても、いつかは病気になって老いて死んでいく。

バブルの時代にはダンディーで羽振りも良くたくさんの仲間に囲まれていた人も、いまは口からよだれをたらして、つえをついて、デイケアの人に付き添われてしか外に出られないとか、夫婦仲良くおしどり夫婦で幸せでも、奥さんが痴呆になって施設に預けていまは一人で暮らしているおじいさんもいる。そういう人生の過程をたくさんまざまざとみると、本当に世界は無常だと思う。泣きたくなるくらい世界は無常だと思う。

でもそれが人間だし、それが生きていくということなんだと思う。どんなにきれいごとをいっても最後は白骨になっておしまい。そんだけなんだなと思う。

世界が無常であるということを嫌というほど見せられれば見せられるほど、今という時間、今という瞬間がどれだけありがたいことで、幸せなことなんだと気付かされる気がする。

今はもう明日にはない。

人の死を通して自分の中に生死の問題をしっかりと見つめることが自分の職業であり仕事であるとほんとうに最近はお腹から思える。

「あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなればたれの人もはやく後生の一大事を心にかけて・・・」

寒さと白骨の御文が身に染みる・・・蓮如さんの言葉は本当にストレートだ。

思うに仏教はある種クールダウンともいえるような気がする。

なむなむ

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Title: 感性。
2009.02.13


感性というと一言で片付いてしまうけど、一つの出来事や事実から、どれだけのことを見ることができるか、どれだけのことを感じることができるか、その数が人生の幅になるんだと思う。

月がきれいだ。それだけの夜にどれだけのことを自分の中に落とし込めるか。

春一番が吹く。それだけのことをどれだけのことに自分に照らし合わせるか。

感性を磨く。それだけでたいていの問題は解決できるような気がする。自分が真宗を扱う上で一番大切にしたいのはそこだと今は胸を張って言える。

*
人間その立場、その状況になってみないとわからない。あたりまえのようだけど、それにちゃんと質感をもって感じるっていうのは難しい。

気づけばつい自分を棚に上げたり、知りもしないのに知ったような顔をする。自分の価値観が一番であるかのように。

自分は自分、他人は他人、どうして違いを必ずしも認めなきゃいけないとは思わないけど、せめてその理由でそれを排除したり傷つけたりするのは絶対に違うと思う。

チベットとかそういう大きな問題の話だけではなく、いま目の前。そこに確実にある問題の話。

*
こないだ久々に自分が小さいときに育った場所をゆっくりと歩いた。そしたらあっちこっちにまだあの頃の傷跡とか思い出がこびりついているような気がした。

あの頃足が速いことと、高い所に登れるということは一種のステータスだった。だからあの頃はとにかく足がはやくなりたかったし、高い所に登った。そんなことを思い出しながら歩いてたら自分が登ってた木や建物にさしかかった。そしたらその場所のあまりの低さにおどろいた。

あの頃ヒーローになりたくてものすごい怖いのに無理して登った場所は、こんな高さだったんだと思ったら、なんとなくうれしいようなさみしいような微妙な気持がした。

でもきっとそれに気づけてよかったんだと思う。いま目指す頂もきっとそうであってほしいと思う。

*

最近自分がなにかを考えるときの柱というか、自分の中で真中にあるものは、物事は関係性でなりたっているということ。それは自分を棚に上げないことであり、感謝することであり、今を大切にしようということ。仏教的にいえば因果とか因縁、宿業ともいえるのかもしれない。そしてそれは一如でもあり。空でもあるということだと思う。

例えるならば頭痛がするときにほぐしたほうがいいのは、首や目だったりすることであったり、お腹を温めるとそこを温めるために使っていた血流が手足に巡るから手足が暖かくなることとか。

人間の脳は首の上にないと機能低下することとか、つまりは寝たきりになることが引き起こす影響は手足だけの問題じゃないこととか。冬に寒くて縮こまってると姿勢が悪くなって胃にも腰にも負担がかかるとか。姿勢を変えるだけでいろんな所がかわる。

風が吹けば桶屋がもうかる。ということを突き詰めて考えてみると面白いくらいなににでも通ずる。

楽しいってなにかとか、命って何かとか、自分って何かとか、好きってなにかとか、友達って、家族って、そういうこの世のすべて全部に関係性を見出そうとおもったら関係性の見い出せないことなんて一つもない。

自分が思うことはそういうすべての関係性によってもたらされている。

その目に見えない部分まで含めて、その大きな関係性や働きを他力と呼ぶんだろうと最近うすうすだけど感じる。

種があっても芽は出ない、土をかけて雨が降って、それだけでも日陰じゃ芽は出ない、太陽があって、誰からもほじくり返されずにいてはじめて芽が出る。でもその種自身は自分で雨も降らせないし太陽も照らせない。

そういうことなのか。

なむなむ。


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Title: ごりょうげ。
2009.02.07

念仏とはなにか。

ものすごいシンプルだけどこの答えこそが真宗の核になる部分であることは間違いない。念仏とはなにかということにきっと答えはないんだと思う。でも自分の中で念仏というものが年々形を変えてきているのは間違いない。

まじめは意味のわからない呪文みたいなものとなんらかわりなかったのが、徐々に自分の中で真宗をつかんでいくなかでおぼろげな輪郭が見えてきたような気がする。

念仏はたくさんの表現で表されるけど、その表現の中でも自分の中でしっくりとくるものを挙げるなら。

・子どもが道に迷ってどうしょうもなくなってお母さん!と叫んだその声こそがお念仏。
・念仏は我の崩れる音。
・念仏は赤子の泣き声。

これが自分の中で腑に落ちた、いまの自分のご領解の中で素直に了解できる表現だと思う。今日本堂でお経をあげているときに、御本尊の前に亡くなった人の写真をお飾りしていたのだけど、阿弥陀さんの足元に笑顔の写真があるのをみて「仏子」という言葉が浮かんだ。

一般的には仏の弟子。仏教を信じる人。仏弟子ということを指すけど、そこには「子」とある。仏子という言葉を仏の子という意味でとらえるならば、そこから念仏というものの性質を解き明かすことはできないだろうか。

子どもがなにかに迷ったり、どうしょうもないときにどうするかといえば、お母さん!だったりお父さん!だったり、それすらもかなわない時には大きな声をあげて泣く。泣くという行為はある種のあきらめ、自分の限界を超えたときの最終手段のように感じる。泣くしかないという心境だ。そう考えれば泣いているということは、その前に少なから自分で何とかしようというプロセスを経てどうにもならなかったという事実があるのではないだろうか。

迷子になったら、まずはきょろきょろと親を探す、うろうろとする。そのうちに不安は色濃くなってくる。歯をくいしばってがんばって遠くまで親を探し回るかもしれない。でも見つからない。

そしてこみあげてくるものがどうしょうもないときに大声をあげて泣く。幼稚園で子どもたちをみていてもほとんどがそのプロセスを経て大声をあげて堰をきったように泣き出す。最後の最後に子どもはもう自分の力ではどうにもならないことを悟って涙を流す。

そして決してこの時の「泣く」というのは「泣く」ことで助けを求めているというのはないんだと思う。もちろん心のどこかで助けてほしいという想いはあるのかもしれないが、具体的にだれかに助けてもらおうとか、泣いてアピールをすればだれか大人が駆け寄ってきてくれるなんていう考えは一切ないんだと思う。

いま目の前の現状が自分の限界を超えた。だからいま自分にできるのは泣くことだけだ。という自覚というかあきらめと、どうにもならなくてこみあげてしまったという表現が一番しっくりくるんじゃないかと思う。

このプロセスは当り前のようだけど、そのまま人生にも当てはまるんだと思う。

人間生きていればいろんなことにぶつかる。大切な人を亡くすこともある。生きていくのがどうしょうもなくつらいときもある。自分自身が嫌になってどうしょうもないときもある。

そういうときは言い換えれば右も左もわからないような真っ暗闇にいるんだと思う。右も左も上も下もどこにいってもいいかわかんなくて、でも必死に抜け道を探そうとする。その心は子どもが歯をくいしばって親を探すのにちかいものがある。

しかし大人になればなるほどに、そういう自分を素直にうけとめられなくなる。現状を受け入れるまえに、まず思い浮かぶのは打破ではないかと思う。

迷子になったら、いかにこの危機的状況を抜け出すかを考える、そして知識も経験もあるから、人に道を聞くことも、お金を借りることもできる。最悪携帯で電話すればいい。そうして問題を解決していく。解決していくというよりも解決できてしまう。打破しようとしてできない子どもではなく、打破しようとしてたいていのことが打破できてしまうのが大人で、打破することに慣れてしまい、ましてや打破することに価値観を見出そうとしたりする。

あの頃目も前にあった壁の前でただ泣き崩れるだけだった自分はどこにもいなかったかのように。そんな自分は弱く無力な子ども時の話じゃないか。いつまでそんな話をしているんだという顔を平気でする。

でもそれは違うと思う。

道を誰かにきいてもみんなが違う道をすすめて、お金を借りようとおもっても、お金じゃ解決できなくて、携帯電話の電波も届かないところで迷子になるということが人生にはある。

打破できない問題というのは存在する。生きるということ老いるということ病気になるということ、死ぬということ。

その問題にぶつかったときに、打破することがすべてだった自分はいったいどうすればいいんだろうか。

その時にきっとああ泣くっていうのはこんなに難しかったんだと思うかもしれない。それでもまだただ泣くだけになんの意味があるのかと強がろうとする気持ちがでるかもしれない。

でもただ泣くという行為の中には、自分にはどうしょうもないんだという自覚がしっかり存在してる。あきらめ。いうなれば「我」というものがきわめて薄くなっているんじゃないかと思う。

生老病死の問題というのは言い換えれば何をしても打破できない問題。解決法は受け入れるほかにない。自分の中に何かを受け入れるときに一番大事なのは入ってくるそのものの居場所をしっかりと作ることだと思う、それを邪魔するのが「我」だ。

まだまだ若い。病気には負けないぜ。死ぬなんて老人が心配すればいい。なんて思っててもそんなのは妄想で、否応なしにその問題はいつだって目の前にある。

お念仏「南無阿弥陀仏」というのは。

その目の前にある問題がしっかりと輪郭をおびていきなり目の前に現れた時に、うわぁ!なんじゃこりゃもうどうしょうもねぇ!って出てくるときに出てくる音みたいなもんなんだと思う。

言い換えれば、降参しますで、白旗あげることなんだと思う。現実みたら泣くしかないぜ、なまんだぶつなまんだぶつ、という使い方なんだと思う。

そう思えば最初に挙げた

・子どもが道に迷ってどうしょうもなくなってお母さん!と叫んだその声こそがお念仏。
・念仏は我の崩れる音。
・念仏は赤子の泣き声。

というのがなんとなく了解できる気がする。

ここまで考えた時にじゃ降参しました。白旗あげました。お念仏が口をついてでました。そしたら死ぬのがこわくなくなるんでしょうか、そしたら悲しみをのりこえられるんでしょうか。それが口をついてでたら一体どうなるんでしょうか。というところじゃないかと思う。たぶん。本当の意味でお念仏が口をついてでたときにはこんなところには引っかからないんだろうけど自分にはまだこの部分がひっかかるわけです。

でもその疑問がでるということはまだお念仏というのが、自分の中でなにか苦しみを取り除いてくれる呪文のようなものとおんなじ扱いになってしまってるんだと思う。そういう疑問が出るのはそれがまだ打破の手段だと思ってしまっているからなんだと思う。

「打破できない」この1つの事実がもたらしてくれるのは、いいかえれば人間の有限性というか無力さです。「所詮」っていうことに気づかされることだと思う。

考えても考えなくても死ぬ。考えても考えなくても老いる。考えても考えなくても病気になる。生きるというのはそういう目に見えない大きな流れにさらされててあがいてももがいても一緒なんだってことなんだと思う。

人生というのはよくよく見れば思い通りにいくことなんて1つもない。よくもわるくも。

今の現状がつらくてつらくて泣いて泣いて泣いて泣いて。でもそうするとずっと泣いてちゃだめだ。前を向かなきゃと思う。でもそう思ってもそれが正解とは限らないし、それが正解だという保証は何もない。顔をあげたまたたたきのめされるかもしれない。もしかしたら顔をあげたら別の道がひらけて人生が変わるかもしれない。でもそれはわかんない。

顔をあげるのは正解とおもってると。顔をあげたのにまた叩きのめされた!なんで?って思ってしまうけどだれが顔をあげたら叩きのめされないといったんだろうかということじゃないかと思う。

自分の「思う」ことというすべてに正解はない。1秒先に100%はない。わかってるようで見えにくい人間のもろさ弱さ非力さ無力さに心から気付かされて生きるかどうか。

ある念仏者の方が身内を亡くして寺にきた人とこんなやり取りをしたという。

辛かったら泣いたらいいがな。

でも毎日泣いてるわけにいきません。

じゃ泣きやんだらいいがな。

でも涙は止まりません。

止めなくていいがな。

止めないと仕事にいけません。

そんだら行かなきゃいいがな。

いかないとお金がなくなって食べるものがなくなります。

そしたら食べんでいるしかないがな。

食べなかったら死んでしまいます。

そしたらそんときは死んだらいいがな。

これだけ読んだらなんだこりゃと思うかもしれないけどものすごく筋が通ってると思うし、ここで考えさせられるのは「幸せ」ってなんだろうかということだ。

食べ物があるのが幸せなのか。生きていることだけが幸せなのか。泣かないことが幸せなのか。仕事に行くことが幸せなのか。

最後にそんときは死んだらいいがな。という一言にはっとした。死は忌み嫌われて駄目なものだと思ってた自分の価値観にも違う角度があるかもしれないと思った。これはほんとにわかんないけど、きっと念仏者がこのとおりになって死を迎えたとしたらそれは死は受け入れ難く辛く悲しいものなんだろうか。なんかこれは勝手な想像でしかないけど、いやぁしゃあないな。こうなりゃ死ぬしかないがな、なまんだぶつなまんだぶつと晴れやかに死んでいくのではないかと思ってしまう。もしかしたら最後の最後に死にたくない!って思ったとしても、ああやっぱ、死にとうないなぁ。なまんだぶつなまんだぶつと死んでいくんだと思う。

なんだろう。価値観にとらわれずに我にとらわれずに、自分の存在の分をわきまえてる感じこそ念仏に出遭っているということなのかもしれない。

それってものすごく強いことなんじゃないかと思う。

人生は思い通りにいかない。むしろ自分で変えられることないと思うことは一見窮屈できめられたレールの上なのか。と思ってしまうかもしれないけど、それに気づかされることこそこそ最高に自由なんじゃないかと思う。

いまここ。

自分にはここしかない。

念仏とはなにか。きっとその問題を解き明かすということは一生できないと思う。でもこうやって自分の中でご領解としてことあるごとに頭の中にあることを吐き出す作業だけはやめないようにしようと思う。一生解き明かせないような問題に出会えて自分は幸せだ。

まえにまえに。

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Title: 言葉
2009.01.23


言葉というものについて最近考えさせられることが多い。

まえにオールウェイズ3丁目の夕日を見たときにも感じたけど、「くそばばば醤油のんで死んじまえ!」というのをそのおばあさんにいえるということは、お互いの信頼関係あってだし、言葉尻をとらえればひどいことみたいだけど、でもそれは愛情があるやりとりだと思う。逆に「おばあさんいつまでもお元気で」という言葉をかけたからと言ってその人に関心がなければ全然意味がない。

大事なのは言葉なんじゃなくて、言葉を発する人の中にあるものなんだと思うし、本当に中にあるものは言葉に頼らなくても伝わるものなんじゃないかと思う。

そりゃそうだよ当然じゃないか。なにをいまさらと思うんだけど、でもそれを自分がちゃんと質感をもって感じていたかというとそうじゃなかったと思う。

吉本隆明さんの講演をきいて改めてそう思った。なんていうか言葉が先に出てるのではなく、言葉に心をおいつかせるのではなくて、心に言葉を後付けでさがすような絞り出すような感じがした。

言葉ありきの心ではなく。心ありきの言葉を使えるようになりたいと思った。質感をもって。

すこしそこから話はずれるけど、言葉は大切だけど、それはあくまで一つの手段であって、それ以上でもそれ以下でもないという事実は間違いないと思う。その事実をちゃんと直視するかしないかで心にかかってくる負荷もだいぶ変わってくるんじゃないかと思った。

言葉にしてほしいときもあるんだよとか、言葉にしないとわからないことというのはたしかにそれは間違いないからそれはそれで大事にするんだけど、でも言葉はあくまでなにかを形容する1つの手段であって、いくら自分のほしい言葉を引き出せたからといって、その瞬間安心できたからといってもその瞬間にいつまでもつつまれていることはできない。心というものはいつだって変りうることを考えれば言葉は無常だ。そういう意味じゃ本当の意味での安心というのは言葉によってもたらされるものじゃない。

そう考えれば本当の意味での安心ってのは言葉とかそういうものに左右されるところにはないわけで、じゃあどこにあるかといえば、その言葉をとらえる自分の解釈の問題になってくるんじゃないかと思う。矢印を内側へ。どんな言葉をかけてもらえても、自分がだれかにどんな言葉をかけたとしても、それは1つの事実に対する手段であり形容であって、自分が必ずしもいつもその言葉を生み出せるかというとそうじゃないし、それは相手も同じだということ。そういう瞬間を大切にしつつもそれは無常であると思えることに幸せっていうのはあるんじゃないかと思う。なくなりうるから価値があるのであって永遠なんてものには価値はないと思う。

そう思ったらいまかけてもらえた言葉や人にかける言葉にものすごく質感がともなうんじゃないかと思った。

この事実を間違いないと思えたらものすごく楽になれるような気がする。口にだすだけでそのつもりにならないように、何事にも質感をもって。

言いたいことがうまくまとまらないけど。

いつまでもあると思うな髪の毛と命。ということです。

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Title: 一期一会
2008.12.26


この時期になるといつも自然といままで書いたものをざっと読み返す。読み返すことで自分の歩いてきたことや考えてきたことの過程をたどる。そしていまの自分が足踏みしてないことに安心をしたり、時間のなさに焦ったり、自分の小ささを反省したりする。

リベラルとか保守とか。自分らしさとか、誇りとか、プライドとか、かっこいいとか。

そんなものに頑なな自分の言葉を読み返してみて、ここ数年で自分の中で変わったなと思う部分は、変わるものは守ろうとしても変わるし、変わらないものは変えようとしても変わらないと思えるようになったこと。

自分が意識的に守れてるとか保ててるなんてものはいつだってなくなるようなあやういものでしかない。それが流れでそれが移ろいでそれが出会いで別れでもあるわけで。自分がいくらがんばっても自分の中にある流れや今の自分の周りを取り囲むすべての要因をひとつづつ変えることなんてできない。

あがいてもうけいれても、最後は人間死ぬだけで、慈善事業をしてても、世界の経済を動かしてても、一人でもたくさんの人に囲まれてても、がんばってもがんばんなくても。さみしくてもさみしくなくても。

最後はたった一人ぼっちで、最後の最後に笑えるかどうかは自分次第だから、だれかに笑わせてもらわなくても、いつだってこんな自分に笑える自分でいたいと思う。

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Title: 年の瀬
2008.12.24


時代や社会の思惑からドロップアウトした人や言い方は悪いけどそういう求められているものに矛盾やずれを感じて、そして社会に不適合といわれはみだしものみたいな扱いをされる人がたくさんいる。いつの時代にもそういう人はいる。

天皇陛下万歳の時代にこんなことをして日本が勝てるかと叫んだ人や、エコノミックアニマルになれなかった団塊の世代やひきこもりも登校拒否もホームレスも。

そういう人に時代や社会や常識はそういう人には価値がなくてそうじゃないことの方がいいことなんだと口々に言う。それを聞いてみんなああはなるまいと必死に社会や規範や常識にしがみつこうとする。あれはだめなやつだ。ああなったら終わりだと必死に食らいつこうとする。

今年1年を振りかえって感じるのは、みんなそうやって食らいついて、社会や規範についていこうと頑張ってきた人たちに限界がきたみたいだ。今年1年でアメリカのテロの犠牲者の10倍以上もの人が自殺してる国がまともなわけがない。

きっと日本人はがんばりすぎたのかもしれない。がんばって歯を食いしばりすぎたのかもしれない。耐え忍ぶことは日本人の誇りなのかもしれないし、民族性なのかもしれないけど。人一人の心が耐えうることのできる現実を超えたのかもしれない。

思うに、がんばってがんばってもどうにもならないことがあるってことや、自分の力でいくら抗おうとしても変えられないことがあるということをしっかり認識することは大事だと思う。実際よく考えればすべてが思い通りになって今がある人なんていないはずだし。でもその現実を悲観してあきらめるのではなく、そんなどうしょうもない自分をしっかり認めてこの社会には適合できないなぁってしっかり理解しればいいんだと思う。

あらがってもあらがわなくても、目の前にはいいことも悪いことも普通に起きる。考えても考えなくても自分の目の前に起きることはいいことばかりではない。考えたらすこしでもいい方向に進むかといえば必ずしもそうじゃない。

人生は思い通りにいかないことのほうが自然なんだということを知った時にはじめて、自分はいろんなものから解放されるんじゃないかと思う。おもうにそこではじめて自分は無限で自由でなににもしばられないんだって心から思えるんじゃないかと思う。

安穏で平穏であるということは、手を離すってことだと思う。戦わないということだと思う。

そう思ってるのにそんなことしてたら飢え死にしちゃうぜ。社会不適合では飯は食えないぜ。そんなこといっても家族や恋人はどうすんだってきれいごとじゃ生きてはいけないぜ。

ってすぐにいろんなものが自分にのしかかってくる。

でも究極そうやって生きていこうと思って生きること、先とか後とかに意識をおかずに今をしっかりみつめて今できることだけをしていく、もしそれで失うものがあるとしたら、きっとそれはいつか自分を苦しめる一つの要因なんじゃないかと思う。

必死にがんばっていなきゃ手におさめておけないものは手放してもいいんじゃないかと思う。

きっとたくさんのものを失っても、なんにもなくなっても、周りからなんていわれようと、誰よりも安らかで誰よりも安穏で平穏で幸せなんじゃないかと思う。

頭であれを失ったらああなってこうなって、きっとみじめで周りからああ思われちゃう。なんてことはただの妄想の一つでしかない、妄想にとりつかれて物事を正しい目で見れないのが人間。

そんな自分に気づけるかどうか。

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Title: 裁判員制度
2008.12.07

裁判員制度が始まる。自分の身の回りにも何人か裁判員の通知書が届いた。

法治国家ですから人が人を裁くことにいまさら反対してもどうにもならないけど、その小さな苦しみの火種みたいなものを国民中にばらまかなくてもいいのに。人が人を裁くということが人間の心や価値観にどんな影響を与えるかということにもっと深く疑問を持たなくていいんだろうか。

さも自分は正しい人間であるかのように人を裁くこと。そして人を裁いたことに対してあれはあれでよかった。しょうがないよあの人は裁かれて当然となんの疑問を持たなくなることの恐ろしさ。

あの人は死刑になってしょうがない。自分は正しい。自分の価値観は正しい。あいつは悪者。

そんな考え方や価値観が蔓延していくのがものすごく怖い。

この制度が始まってしまった以上は裁くということだけが価値観やなにかの基準に照らし合わせられて淡々と作業的に進められるのではなく、せめてそこに携わった時に、裁く側と裁かれる側を隔てるものがなんであるのかということにもしっかりと目を向けられるような制度になってほしいと思う。

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Title: いま自分の目に映っているもの。
2008.11.26

「人間は見えるものを見るのではなく見たいものを見る」という言葉がある。

少しはやいけど今年1年を振り返ってみると本当にいろんなことがあった。世界的な株価暴落、餃子事件に年金問題や大相撲の問題、今年も戦争やテロが減ることはなかったし、日本では自殺者は3万人を超えた。事故扱いにされていない自殺者を含めればきっとゆうに5万人近くになるんじゃないかと思う。911のテロで行方不明または亡くなった人が約3000人、そう考えれば日本では毎月あの規模のテロが起きているのと同じくらいの人が自殺をしている計算になる。それに社会的格差もどんどん広がる。

もういろんなことが覆い隠せないぎりぎりのところなんだろうなと思う。

どんなにいいところを見ようとしても、明るい話題を持ち上げようとしても。夢とか希望を胸に掲げてどんなにポジティブになろうとしてもそれがハリボテだってみんなが気付き始めてるんだろうと思う。

そんな時代だからこそニートやネットカフェ難民をみて、ああはなりたくないねという。ホームレス中学生をみて自分はまだ幸せだなと思う。ある統計によれば秋葉原の事件をみて世論の多くは犯人にたいして同情の気持ちを持っているという。きっとおバカキャラが世の中に受けるのもきっとおんなじ理由なんじゃないかと思う。どこかで自分の中にある優越感を安心に変えようとしてるのかもしれない。まだ自分はましだって。

いつ自分がそうなってもおかしくないという不安がだれにでも見え隠れする。誤解を恐れずにはっきりいうなら、この社会で田中角栄のような人が生まれてくるのはありえないですよ。今の社会じゃそれなりに教育をうけてきて、それなりに社会的地位がなければ、のしあがれるにも限度があると思う。この世なのかを動かしてるのは数人の人間で、お金なんていうのは上の方でうまいこと循環してるだけですよ。コツコツ頑張った人だけが報われるかいえばそうじゃないです。まさにマルクスが心配した通りの世界じゃないか。いままで資本主義の恩恵にあずかってきてそのデメリットに目をむけてこなかったツケがいまになって表面化してるんだろう。

しかもそんな世の中に対する心の不安に病名までつけてそれを治療しなきゃいけないといって、心の病んだといわれる人を作り出して薬を処方する。

不安は病ですか。

思うにこんな時代じゃ鬱になるほうが正常なんじゃないかとすら感じてしまう。毎月何千人も自殺してる国でそれでもハイテンションでなんとかなるさ。なんて言っていることの方が異常じゃないかと思う。

この現実に目を背けたり、気付かないふりをしたり、ましてや夢や希望があれば乗り切れるとはしゃいでももうどうがんばっても覆い隠せないんですよ。

それを前向きに乗り切ろうと、希望や夢で乗り切ろうとするから苦しくなる。乗り越えられないことがあたかも弱い人間で、順応できない人間をだめな人間であるかのような価値観なんかくそくらえですよ。

こうなりゃあきらめるしかない。

「人間は見えるものを見るのではなく見たいものを見る」

いま自分の目に映っているものが正しく見えているものではなくて自分が見たいものではないかと、もう一度自問自答して正しい目で物事を判断することが大事なんじゃないかと思う。

そんである意味開き直る。

諦めるというと否定的なとらえられ方をするけど、社会とか世論とかの物差しから離れた物差しに持ち替えて価値観をはかっていくことが必要なんじゃないかと思う。幸せの価値観すら刷り込まれている自分に気づくことじゃないかと思う。

だれでもない。

幸せは自分の心がきめる。

そもそも幸せってなんですか。

っていう原始的な疑問をもう一度真剣に考えるべき時代なんじゃないだろうか。

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Title: 中論
2008.11.10


竜樹の中論読み始めてみて、できるだけ原文の訳に近いものを探して読んでみると、なんかもうすごいとしか言いようがない。この本はやばい。これだけの思想や思考を明確に文章にまとめられているということだけでもすごいのに、何千年たったいまでもそれがこうやって伝え続けられ続けてきて、いま自分の手の中にあるとうことがあたりまえのようだけどすごいことだし、幸せなことだと思う。

その反面、こんなに簡単に手にしてしまうということが本当にいいのかどうかとも疑問に思う。昔はシルクロードを渡って命をかけてこの経典を目指していた人たちがたくさんいたのに、いまやAmazonでぽちっとすれば2日で家に届くなんて。西遊記もびっくりですよ。

でも本当に経典というものの重みを最近ひしひしと感じる。苦しい時に帰れる場所、依れる場所が明確にあるということの幸せ。

しかしこれを読んでみるとなるほどこないだの講演の前置きもしかりダライラマ法王のあの論理的で確実な言葉につながってくるのかと思った。

仏教はきな臭い不確実なものではない。

ものすごく現実的で論理的なものなんだということがよくわかる。でも目に見えないものを論理的に突き詰めていく時に出てくるものというのが宗教を難解にするし誤解を生みだすんだろうな。

しかし読み始めてまだ浅いけど、ここに書かれている内容はフロイトの本の中にもこないだ読んだ脳科学者の茂木さんの本の中にも同じようなことが書いてあった。心理学も脳科学も突き詰めていくと同じようなところに行きつくんだろうな。こないだ話した精神科の先生も同じようなことを言っていた。

七高僧の書いたものをはじめて読んだけど、竜樹の中論だけでこれだけのものだとしたら他のものを読み終えてそれを全部自分の中に落とそうとおもったら途方もない時間が必要なんだと改めて時間のなさに若干の焦りすら感じる。

中論の13章の第2項に自律神経がバランスしているときに得られる均衡のとれた静寂が人間の幸福を示す永遠の指導標であろうという1文があるけど、自律神経のことまで触れられているのだとしたら、やっぱりそこには呼吸は切って切り離せないと思うし、インドからヨガができたということにも筋が通るし呼吸法と仏教はきっても切り離せないところにあるんだと再認識。

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Title: 法縁
2008.11.08

ダライラマ法王の話をきいて。

きっといろんなことを感じる人もいるかもしれないけど、自分の感じたことをそのまま書きます。

今回はじめてダライラマ法王の話をきいて、とくにめあたらしい言葉もなければ、目から鱗が落ちるようなこともなかった。でもそれがかえって深く自分の心に響いたし、あれだけ単純な言葉であれだけ確かなものを感じさせられたのはすごいと思った。感応道交っていうんだろうか、言葉尻ではなく力のある言葉だった。

話をきいて一番に感じたのは「ああこれで間違ってなかったんだ」っていう感情だった。

えらそうになにをわかった気になってるんだと思うかもしれないけど、でも本当に自分がここ数年でかみしめてきたこと、文章にしてきたこと、もやもやしてきたこと、その一つ一つにそれでいいんだ。と言われたような気がした。だからこそ、あの話をきいても自分の中でなんの違和感もわかなかったし、むしろ当たり前のことをものすごく確かなものとして受け止められたし、その言葉に確かな深みみたいなものを感じることができた。

ものすごくレベルを下げて話をしているのも十分に伝わったし、あの時間で通訳を通してでは限界があるのもわかる。でもその中で完璧な位置で難しくも噛み砕きすぎずも仏教というものの本質をとらえていたと思うし、あの語り口やたとえ話は本当にわかりやすく入りやすかった。そしてなによりもすごいなと思ったのが話の導入の仕方と前置きだった。

自分と同じものを読んでる。自分と同じものを扱っている。ダライラマ法王も自分でいっていた通り自分も同じなんだ。という言葉がものすごく意味をもっていた。遠い人じゃない。なにか不思議な力を持っているわけでも神格化されるような人でもない。一言でいえば、こんなこというのははばかれるのかもしれないけど、自分とおなじ一求道者で宗教者なんだということがひしひしと伝わってきた。今回の話をきいて、ダライラマ法王の言葉に新たなことを吸収したり、学んだりということではなく、いま進んでる道にどんと自信がもてたというか、背中をどんとたたかれた気がしたと同時に自分もあんなふうに宗教を扱えるところまで行きつけるんだろうかとおもった。

自分にはあれだけ確かな言葉で宗教を語れない。あれだけ強いものを言葉にのせることはできない。同じ言葉にのっている重みの違いっていうのをまざまざと感じた。あれだけ仏教を、哲学的に論理的に語れて常識の枠の中からはみださずに真実を伝えることができる人はきっとほかにはいないと思う。あれが仏陀の資質みたいなものなんだろうか。

最後の質疑応答である禅宗の僧侶の質問に対して、法王は竜樹の中論の中の18章24章26章にあなたの答えが書いてあるといった。それがものすごく気になって中論を読んでみようと思った。

今回感じた一つは竜樹の中論もそうだけど、宗派の垣根をこえて宗教を扱っていくことの重要性というか、宗派の違いはあれど自分たちの扱っているものは同じであるという認識を宗教を扱う人間は持つべきだと思った。

真宗の人間はすべてではないけど宗派に偏っている人がおおいと思う。もちろん自分の知っている人の範囲だけだけど、親鸞教団を連発する人とか、親鸞によりすぎて本質を見失っているんんじゃないかとすら感じる人もいる。真宗はピラミッド構造で頂点に親鸞がいると、しかし禅宗というのは何かに頂点があるわけじゃない分幅もあるし、解釈に余裕もある、ピラミッドというよりは台形に近い。といった人がいた。それを言われた時にはよくわからない言葉だったけど今になってすこしその意味がわかったような気がした。

宗教の本質は自分の中にある。宗教の本質は単純でいてシンプルなもの。ということがものすごくよくわかった。

本当に話がきけてよかった。この法縁に感謝。


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Title: さんてぐじゅぺり
2008.10.17

自分の書いたものを読み返して思った。

10年前の自分はきっといまよりも強かった。立ち向かう勇気も勢いもその瞬間にかけられる気持ちの重さは尋常じゃなかったと思う。

でも10年前の自分はきっと今の自分には勝てないと思う。強さとはしなやかさみたいなものできっと力ではない。

名人と達人の違いを考えながらふとそんなことを思った。

バガボンドの中にある言葉

「天下無双とはただの言葉だ」

なるほどね。

武蔵が名人だとしたら石舟斎は達人だということか。

目を凝らせば凝らすほど見えなくなるという感覚が最近やっと自分の中に落ちた気がする。大切なものほど目には見えないんだと星の王子様もいってたし

豪雨の中に静寂を感じるこころ、真っ暗な部屋で明るさを感じるこころ。

こだわらないとらわれない。ぼんやりと。

最近身近で「感覚で息してるみたいなもの」といった人がいた。そういう言葉を普通に使えるということがすごいなと思った。

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Title: 2008お彼岸 悪人正機
2008.09.23


今回は親鸞聖人の説かれた悪人正機ということについて少しお話させていただきたいと思います。

歎異抄の3章の冒頭にでてくる一文に「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という1文があります。意訳しますと、善人が救われるというのならば、悪人が救われて当然だ。つまりは阿弥陀さまはそういう区別なくあますところなくすべての人を救うということになります。

普通はであれば、悪人が救われるなら善人が救われるなら当然だ。というならわかりますが、親鸞聖人はまったく正反対のことをいったわけです。

なぜそのようなことを述べたのかというところを考えていきたいと思います。

まず悪人をイメージしてください。と言った時に多くの人は、泥棒や人殺しなどの犯罪者や、さらには人相や柄の悪い人をイメージしるのではないでしょうか。そうしますと逆に善人といえば、温厚で穏やかで、にこにこした、人をイメージするのかもしれません。

しかしそんな漠然としたイメージだけで多くの世間一般的な善や悪というイメージというのはわかっているようで、実は曖昧で確実な基準というのはないわけです。

ひとつ例え話があります。

ある地方の銀行で最近ECOがブームであるということを踏まえ、ECO預金というものをスタートさせました。このECO預金というのは、自分の町の河川の汚染がさがったり、ペットボトルのリサイクル率があがったらその分金利を上げるというサービスだそうです。

地球のため町のためになって金利もあがるということで、大人気のサービスで、その銀行には通常の何十倍もの預金があつまったそうです。預金をはじめて1年でみごとその町の河川の汚染もさがり、そのまちでは水がきれいになり、ペットボトルのリサイクル率があがったそうです。

預金をした人も地球のため、みんなのため、また自分の預金も増えるということでそのサービスは大好評だそうです。一見いいことづくめのようですが、銀行というのは預金で集まったお金を今度は増やすために貸し付けや融資を行うわけですが、そのECO預金であつまった普段よりも何十倍ものお金を他の国に投資するわけです。

そうするとその投資されたお金でその国は開発を行うわけです。普段の何十倍のお金で普段の何倍もの伐採がおこなわれ、たくさんの重機からはふだんの何倍ものCO2が排出されます。

差し引きしますと、自分の街は1年で見違えるようにきれいになったかもしれませんが、地球規模では1年で砂漠化してしまった土地がたくさんできたわけです。その土地ですむ所を失った人住めなくなった動物がたくさんいるわけです。

この場合、いいことをしているつもりでいた預金者はしらないところでこういうことを生み出しているわけです。

この預金者は善人か悪人かといわれればとても曖昧になってしまいます。

人間は目に見えるものからみえないものまでたくさんのかかわりと関係の中に生きていることは事実です。人間というのは、このように自分の知らないところで、いくらいいことをしていると思っていてももしかしたらどこかで誰かを傷つけたり、悲しませたりさらには罪の大小にかかわらず法律に触れてることだってあるかもしれません。いくら自分の目の前で正しいと思うことを貫き通していてもそれが絶対であるかどうかなんてことはわからないというわけです。

親鸞聖人も歎異抄の後序の中で善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。とつまりは善と悪このふたつはなにがよくてわるいかは自分の知り及ぶことではないと述べています。つまりは私たちのする善悪の区別や判断などあてにならないし、絶対でないということを述べているわけです。

現代は情報社会です、自分もそうですが、テレビをみていて、あいつは悪い。こいつはいい。また勝ち組や負け組など、だれかがだれかを判断して、あたかもその価値観があたりまえであるかのように蔓延しています。自分はしっかりしているから大丈夫だ。自分でしっかり判断してる。関係ないとおもっていても価値観までも刷り込まれてしまう時代です。いつその中に自分がはいっているかもわからない。そして知らないところでたくさんの犠牲をしいているかもしれない、大きな勘違いで悲しむ人を生み出しているかもしれないという事実がここにはあるわけです。

阿弥陀さまはそういう人間の勝手につけた善とか悪とかそのような区別など一切関係なくもっと大きな目で私たちをみてくれているわけです。そしてすべての人を余すことなく救うと述べているわけです。

しかしこれを理解するというのはなかなか難しいことです。自分自身少し前にある宗教戦争の報道映像をみました。インドネシアである村が宗教対立するほかの村人に虐殺されるという事件がきました。その映像はあまりに凄惨なものでした。首をおとされた人、また1歳にも満たない子どもまですべての村人が悲惨な殺され方をしました。ただ宗教が違うという理由だけで。

その映像の中に殺した人も映っていました。しかしその顔は自分はなにも間違ったことはしていないといわんばかりに堂々としているものでした。

その映像をみていて、自分の中に一番はじめに浮かんだのが、悲しさとまた同時にこの悪人正機という言葉でした。先ほど話しましたが、人間のつけた善も悪も絶対的な価値観はないと。阿弥陀仏はすべての人をあますところなく救ってくれると、善人がすくわれるなら悪人がすくわれて当然だというわけです。

そう考えればこの犯人も救われて当然なわけです。法律を犯すどころかこんな残虐なことをした犯人でさえです。

そのとき自分の中にわいた悲しいという気持ちと、悪人正機の教えというものが消化できないまましばらく考えていました。頭ではわかっているつもりですが、はっきりいえばこんな犯人でも救われるということが腑に落ちなかったからです。なんで親鸞聖人はそんなことをいったんだろうか、阿弥陀さまはそういう人も救おうと思えるのはなんでだろうか。と思いました。

そのときに歎異抄の中にこんなやりとりがあったのを思い出しました。「唯円房は私の言う言葉を信じるか」と仰せられたので、「信じます」とお答えしましたら、「では、私の言うことに背かないだろうな」と念を押されたので、「その通りにします」とお答えしたところ、「では、人を千人殺してきなさい。そうすれば浄土往生は確定するぞ」と仰せられましたが、「仰せではございますが、私の器量では、一人でさえも殺すことは到底出来ません」とお答えしましたところ、「では、どうして親鸞の言葉に従うと言ったか」と仰せになりました。「これで分かったであろう。何事でも自分の思い通りに出来るのなら、浄土往生のために人を千人殺せと言われたらその通り殺せるはずだ。しかし、一人でも殺せないという理由があるから殺すことが出来ないのだ。自分の心が良いから自分がいい人間だから殺さないということではない。殺さないでいたいと思っていても、百人も千人も殺すこともあるのだ」と言われました。

この文章を何度もよみかえしてみて、このやり取りの中にあるものがまさにいま自分の思うところにぴったりと当てはまる気がしました。

人間というのは、見えないたくさんの価値観や、情報や関係性、苦しみやしがらみに振り回されていきています。その中で人生の選択を間違えないように自分の意志で選択をして生きていると思いこんでいきています。しかし、その自分のよかれとおもってした判断の中でもしらないだけで、誰かを犠牲にしたり、もしかしたら苦しめているかもしれません。先ほどの預金の例のように自分の行為がどこかでだれかの苦しみにつながっている可能性はあるわけです。逆にだれかを苦しめてやろうとおもってしたことが誰かを救っていることだってありえるわけです。

自分の行動がすべて自分の思い通り狙い通りにいくかといえばそんなことはないわけです。

じゃあなにを基準に行動すればいいのかといえば、いま自分にできるのは自分の思ったことをするだけです。それが正しいか正しくないか、善か悪かなどということは考えぬいてもわからないわけです。自分が「思う」ということ「行う」ことも本当は自分の力を超えた大きな流れの中にあるわけです。自分だけでなく誰かが起こした事件すらもその大きな流れの中でおきたことなわけです。

理由さえそろえば自分も誰かを殺してしまうかもしれない、殺したくなくても、もしかして家に強盗が押し入ってきてきたら家族を守るためにその犯人さしてしまうかもしれないし、宗教の対立で村人をたくさん殺した犯人と、同じ立場で、同じ関係性の中で生まれ育ちその場にいたのがもしも自分だったとしたら、絶対にそれをしなかった。といいきれる根拠はなにもないわけです。そういう弱さ、あやうさみたいなものをだれもが抱えて生きているわけです。

その人が殺すのをためらわなかったのにはためらわないだけのなにかがそこにあったからというわけです。

その理由、なにかというのは仏教では因果とか宿業ともいいますが、その因果は自分の力でどうにでもなることではなく、それが他人からもたらされるかもしれないし、家族や育った環境からもたらされるかもしれないし、自然からもたらされるかもしれないし、さらには時代によってもたらされるかもしれない。それは誰にもわからないわけです。因果は自分の力ではどうにもならないおおきな流れであるわけです、そして人間はその中で生かされているわけです。

そう考えますとたまたま自分がここに平和にいきているのは、そういう理由がそろわなかっただけで、いつそういう理由さえそろえばなにをするかなんてわからないというのがわが身であるわけです。

事実敵を倒すということを公然と求められていた時代が数十年前にはあったわけです。

理由さえそろえばいつでも自分も同じだということです。その事実だけに善だ悪だと決めつけることはできないわけです。

一つの事実や出来事には必ず背景があるということを忘れてはいけないんだと思います。窮鼠猫をかむという言葉がありますが、追い詰められたネズミが猫をかんだらネズミだけが裁かれて悪人あつかいされているようなものではないかと思います。鼠が命をかけるほど追い詰められていたという事実にも目を向けなければいけないわけです。その事実はいつ自分のみにふりかかるかもわからないわけです。

追い詰められてかみつくなんて、それは弱い人だけだと思うかもしれませんがその弱さや恐ろしさも自分の中にもあるということ、それを自覚するということが大切なのではないかと思います。

人間はいつどのような因果がめぐってくるかわからないわけです。

阿弥陀仏の救いというのはそういう生きとし生けるもの、追い詰めたものも、追い詰められたものも、犯罪をおかしても犯していなくても、すべての因果に生きる生きとし生けるものすべてにむけられたもので、いくら自分の力でただしく生きていこうとしてもできない人間という存在そのものに向けられているわけです。その阿弥陀仏の心をその心を大慈悲心といいます。ここには悲しみという字が含まれています、そのような弱い人間を慈しみ、そして悲しみ、一緒に泣き寄り添ってくれると、救わずにはいられないというのが仏の願いなわけです。とても深くあたたく、ありがたい心だと感じます。

そのような弱い人間を仏教では凡夫といいます。そんな危うさや弱さを抱えた私たちが善とか悪とかそれを区別できるはずがないわけです。凡夫の私たちは自分で判断しているとしてもそれが正しいかどうかということはわからないしいつ自分本位の考えに偏っているかわからないわけです。自分自身はじめにあの犯人も救われるということは理解できないと思いましたが、そう思う自分のなかにはあんな人間と自分は違うんだというおごりがあったのかもしれません。

自分本位といえば、テレビをみているととある愛犬家の方が、動物虐待のニュースをきいてひどくこころを痛めていました。しかし人間というのは犬だけではなく、生きるということはたくさんの動物の命を奪ってなりたっているわけです。今日だってたくさんの命を口にしていきているわけです。犬だから駄目で、牛や鳥ならいいんだ。という理論にはなんの根拠もなければそこに善悪の区別もつけられるはずがないわけです。そういいますと、食べるために殺すのと悪戯に命を奪うのは違う。と思うかもしれませんが、この飽食の時代に目の前のだされた肉を一口も残さずに食べてきた人はいないと思います。今日はおなかいっぱいだからいいや。もったいないけどのこそう。時には冷蔵庫の中であらこのお肉賞味期限切れてるわ。とただ廃棄されている肉は年間何万トンあるわけです。命にしたらどれだけの数になるかわかりません。

それだっていたずらに命をうばってるのかもしれません。

一番見えにくく一番近くにいて一番遠い存在が自分であり、それが人間です。

一番はじめに、悪人をイメージしてください。といいましたが、そこでまず自分も顔を思い浮かべた人はいないと思います。それくらい人間というのは自分以外のことは他人事になってしまっているわけです。あんな人間ではない、自分がそんなことをするはずがない。さらには自分の身にそんなことが降りかかるはずがないとたかをくくってしまいます。

清沢満之というかたの言葉で「宗教は自覚である」という言葉が少し前まで門前の掲示板にはってありましたが、真宗の入り口、さらに宗教の入り口というのはまずは自分自身に目を向けることですです。自らの身をただしい目で見て凡夫であることを自覚をするということが大切なのではないかと思います。さらにいえばこの自覚というのは、目の前にある事実を他人事としないで自分の中にしっかりと落して考えるということでないかと思うわけです。

それが真宗でいう聞法の入り口であり自力を離れ他力に依るということなのではないかと思います。その自力の無力さをしり他力を知ることを回心といいます。

その深い自覚を感じ回心した時に初めて自力いうものの無力さを痛感するわけです。そして自らの身をなにかに救いを求めざるをいられないわけです、そこに信心がうまれ自然と口をお念仏がついてでる。

阿弥陀さまがいるから信じて自発的にお念仏をしよう。ではなくて

救われるしかない自分に深く気付いたところに阿弥陀様がいるわけです、そしてそう感じた自分の中から、お念仏があとから自然と口をついてでるわけです。

なまんだぶつなまんだぶつ。

このようなわが身を一切おまかせいたします。といういみです。わが身をおまかせして目の前の現実に深く手を合わせしっかりとそれを受け止めて生きていく。その心の中、その姿の中に阿弥陀様がいるのではないかと思うわけです。

今回このお彼岸という日を機縁に自分自身も改めて見つめ直す機会をいただければと思います。今回お話しました歎異抄の13条というのは、一見今回の話の中でも感じた方がいるかもしれませんが、悪いことした人を擁護しているととらえられがちです。それが親鸞や法然が流罪になったことの発端にもなった部分であり、真宗の教義という点ではとても深い部分であります。とてもこの時間の中には語りつくせないものがあります。そんなとても難しいテーマでお話をさせていただき自分自身まだしっかりと受け止めきれていない部分もあり、たくさんの疑問も抱える中でわかりにくく伝わりきらなかった点もたくさんあったかもしれません。最後まできいていただきありがとうございました。

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Title: いわんや悪人をや。
2008.09.19

今回歎異抄の13条を何度も読み返して、いままで自分がそこにあったものを読み違えていたことに気付かされ衝撃をうけるとともに、また真宗の奥深さをしった。

悪人正機の意味をはきちがえて、阿弥陀仏は悪人を真っ先に救うということをいう人たちがいて、阿弥陀仏に救われるなら悪事を働いてもいいし、むしろ悪事を働いたほうがいいという輩がいた時代に、普通はいくら阿弥陀仏が救ってくれるからといって悪事を働くのはやめろ。悪いことのし放題でいいわけない。というのは当たり前にみえるし、自分自身そりゃあたりまえだろ。と思ってたけど、

しかしこの13条は、逆にそうやって本願に甘えて悪いことのし放題はいけない!と強く主張してもっともらしいことをいうことこそが、阿弥陀仏の本願に背いているとうことが書かれているわけだ。

ほんとうにここで言われていることは人間の陥りやすい弱さというか脆弱さだ。

今回、「悪人正機」をテーマに話をさせていただくにあたって、いろんなことを考えてわかったこと気付かされたことがたくさんあったと同時に、おんなじくらいの疑問にぶつかって、でもそういう本気で頭や心や体や五感をフルにつかって考えていけるような疑問にぶつかれるということは幸せなことだと感じる。

悪人を思い浮かべてください。といったときに自分の顔を思い浮かべる人がいないということがまさに「いわんや悪人をや」なんだろうな。

しかし、真宗は深いがゆえにたくさんの危険性をはらんでいるのもたしかだ。これをしっかりと感じていなければただ単純に悪いことを擁護してるととらえられかねない。実際それが発端で流罪になったわけだし。

ああ。なむなむ。

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Title: POSO
2008.09.04

「POSO」をみた。

それがどんな動画かは検索すればいくらでもでてくるので説明は省くけど、ああいう動画をみて何を感じるかということは人としてものすごく大切なことだと思う。自分は現実から目をそむけてなにも得ないよりもそれを直視して何かを得るような生き方をしたい。

POSOをみてからしばらくものすごいへこんだし、なんか胃の中がもやもやといやな感じがして、頭の中で宗教ってなんだろうとか、ぐるぐるぐるぐると一晩中まわってた。でも自分がなにかそういう壁にぶつかったときにやっぱり戻ってくるのは真宗なんだなということも改めて再認識した。

POSOをみて感じた一番の感情の感情は悲しさだった。悲しさと同時に浮かんだ言葉は「悪人正機」だった。

まず思ったのは、首をつかんで叫んでる男や、小さな子どもの頭をきりつけた人も、老人の腕を切り落とした人も、悪人正機の教えからいけば救われるわけで、あの動画をみた直後に頭の中でその事実をどう処理しようか、そこにはどういう意味が込められているんだろうかとか、自分のなかで納得できない気持ちでささくれだったままもやもやとした。

言葉でいうのと心で感じるのとでは全く違うし、自分の中でまだうまく処理できていないのでうまく伝えられるかわからないけど。

でも思うに、自分の中でその殺したほうの人間に対してやはり悪人だというレッテルをはっているけど、もしかしたら自分は絶対に理解できないと思っていたとしても、もしかしたらどこかでなにかが一歩間違ったら自分がいつその加害者になるかなんてわからないということは極論事実だし。

悪人正機の指す悪人は法律を犯した人間を指すわけではなく、あくまで自分自身、または人間自身の中にある不確かな価値観をさすという前提にたって、頭で考える善悪ではなく、むしろ頭で善悪を判断してしまう人間自身を指すわけだ。

言葉にすると本当に難しいけど。あの加害者が悪であるということではなくて、あの加害者にあの行為をさせてしまったのはなにかの因果があってのことで、人間は因果がそろえばそういう行為に至ってしまう弱さをかかえて生きているということのなによりの証拠で、それは決して他人事ではなく、因果がそろっていないだけで、あくまでそうなりうるものは間違いなく自分の中にあるという根源的な事実をしっかりと認識する必要があるんだと思う。

さらに、POSOをみて初めに感じた感情は悲しさだった。その時にふと思った。

観無量寿経に仏の御心は人々を救わずにはいられない大慈悲心であると書かれている。慈悲心。この中にも「悲」という文字がある。この「悲」という文字がなにを指すのか、なんで仏の心の中にも「悲」があるのかを考えた。

思うに、あくまでこれは自分の思う解釈だけど。

この「悲」はきっと一つの事実に対して他人事ではないという感覚からくるものなんじゃないかと思う。自分と他人という感覚ではなくて。おなじ人間として。

さっき因果という言葉を使ったけど、あくまで自分には因果がないだけで、いまここに平和にいきているけど、なにかがそろえば今の自分には考えられないようなことをするかもしれない。戦争だっておんなじだ。戦争の中で一番醜いのは人間で一番尊いのも人間で。その二面性は間違いなく自分の中にある。

仏の慈悲心というもの、そこにある「悲」というのはその二面性をかかえて弱くもろく、いろんなものになびき生きていかなければいけない人間そのものに向けられたものであって、その前では先に述べた、法律のどうこうであったり、善悪の区別ということを超越したところにあるものなんじゃないかと思う。だとしたら本当に懐が深くてものすごいことだと思う。


さらにこの感覚は、親鸞の弥陀の本願はひとへに親鸞1人がためなりけり。と述べた一文にもつながってくるような気がする。

あくまで弥陀の本願は人間そのものにむけられたものであって、悪人とか善人とかそういうものではなく誰かを限定にしたものではなくて、あくまで人間自身、自分自身のためにあるわけで、つまりは自分が救われるということは同時にすべてが救われるということにつながってくるわけだ。

さらにいえば。

自灯明・法灯明という言葉はまさにその心を表わしているわけで、あくまで宗教は自分のためにあるもので、自らを灯として法を灯とする。ここで阿弥陀を灯として仏を灯としなさい。ではないところがものすごく自分の中で素直に了解で来たような気がした。

宗教とか自分の中で感じたことを言葉や文字で表現するということはものすごくむずかしい。感応道交やっぱり宗教は感覚の世界なんだろうな。きっと伝わる人には伝わるけど伝わらない人には伝わらない。

でもある記事の中に、口がうまいとか、表現がうまいとかそれだけで物事が伝わるかといったらそうではない。口がうまくなくても、表現が下手でも真実は必ず伝わる。でなければ宗教がここまで根強くのこってこれたわけはない。というのを読んでほんとうにそうだと思った。

ほんと全部ひとことに凝縮すると、なまんだぶつ。これしかないんだよな。ほんとに。この5文字だけで何かを伝えられるようにならなくちゃいけない。

宗教は自覚だ。


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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。