|
Title: 頭じゃなくて体でわかるということ
遠慮なく真宗の話なりこういうことを書くことができるこういう場のおかげで、最近毎日いままでいろんな自分の中にあったものを少しづつ掘り下げていけるしその中で本当に日々新しい発見ができるし、いままで自分の中にあったものの価値が一変するくらいの気持ちがする。よく聞く宗教的感動、宗教的な感応というのはきっとこれに近いものなんだろうと思う。 そんなときに感じたこと。 こうやって毎日宗教的なこと、というよりも今は真宗的なことをばかりを考えて本を読んでいると「ああこうやって毎日こういうことだけを考えていけたらどんなにおだやかで。なによりも自分にとってこんなに有意義な時間はないな」という喜びと同時に「もっと深く深くもぐっていったらどこに行き着くんだろうという」探究心も沸いてくるわけですよ。 でもきっといろんなことに追われていたり、それこそおれが証券会社のサラリーマンならそういうことばかり考えていたらあっというまに社会不適合のレッテル貼られちゃうし、社会ではやってけないと思うし、そういう意味じゃいま自分に与えられた環境というのはものすごくありがたい。 なにごともそうだけど。自分と向き合うというのはいい意味でののりしろや余裕というものが必要なんだと思った。 それでも人間と関わって社会で生きていく以上、いつもふわふわと雲の上にいるような感覚じゃいきていけないし、でもそういうことばかりを考えて、さらに深いところ深いところへはいっていきたいというジレンマみたいなものが自分の中でふとわきあがってくる。 つまりはその自己への探求という気持ちが極限まで高まればそれは自然に「出家」という道になるんだと思う。 「出家」とはそういう意味じゃ頭を丸めてお坊さんになりますよ宣言をするということではなくて、そういうおさえきれない気持ちがわいてきて自然に訪れる入り口みたいなもんなんだと思う。 仏陀は29歳で出家して35歳で悟りを開いた。 その29歳という入り口はきっといま自分が悩んでいる部分を振り切ってさらに深いところへはいっていこうという探究心がとめられなくなった結果なんだと思う。そしてなによりも動機は人間の避けられない問題にしっかりと直面したということになるわけで。 家や家族やいまあるものを全部捨てても至りたい境地があるということを知ったということなんだと思う。 そして仏陀は存分に思惟することでついにその境地に至ったわけだ。 でもここで思った。 いまここで自分自身が、家や家族や、仕事をぜんぶ捨ててそういう道にすすんでいこうと。毎日考えることだけをしようと。 いまそれができたらものすごく幸せだと思う。 でもそんなことはできない。現実的に。できるわけがない。 じゃおれはいまの環境にいるかぎり絶対に悟りなんてひらけないし、ある程度のところまでしかいけないじゃないか。という順番に思考はすすんでいくわけだ。 ましてやおれはまだこうやって考える時間をもてるだけ幸せだけどたくさんのものを抱えていてそういう時間すら持てない現代人はそういうところに向かうことすら物理的に無理じゃないかと。 そういう理論になってくるわけだ。 ここまできて。 真宗に携わる人ならば一度は耳にしたことはるとおもうけど。 阿弥陀仏はあなた方の行ずべきことはすべて私が行じました。 (ここにかかる信心の問題は別にして) ようはその呼びかけこそが「南無阿弥陀仏」であるという。 一言で言えばそういうことで。ほんとに一言で言えばね。 つまりはそれがまさに念仏の一道という境地であって念仏者としての生き方であるわけだ。 もちろん自分自身その言葉は聞いたことあったし、阿弥陀仏はあなた方の行ずべきことはすべて私が行じました。だから安心して私の名前を呼びなさいなんて、なんて便利なもんなんだろうなと。 むしろそれにそんなんで救われるんかい。むしろ行ずべきことっていうのはなんなんだ。 とそんな程度にしか感じていなかったのに。 今回自分の中にある気持ち、今時分の抱えている問題に行き着いたときにはじめて。 この「阿弥陀仏はあなた方の行ずべきことはすべて私が行じました」 とう境地の中に、いまの自分の抱えている問題、たとえばそういう境地で生きていきたい。もっと自己を探求したいと思っていても出家の道に至れなかったり、家族や自分の抱えているものをすてきれなかったり。でもその探究心がもうどうしょもない部分まできていてその狭間で悶々としめつけられるようなジレンマのような感覚までも含まれているんだと。 おれがここで踏み出せないことももう百も承知で、それでも大丈夫だから念仏を唱えなさいといっているんだとしたら。 南無阿弥陀仏というものはなんて懐がふかくて、なんてやさしくて暖かいんだろうと思う。 ほんとにおれに気づかされたら念仏というものの深さ。暖かさ。いままで感じていた気持ちが一変するくらいの気づきだったと思う。 まったく真宗や宗教ベースのない人がこれを読んでも、なんのこっちゃ。あぶないな。と感じるかもいれないけど、これが同じ文字を読んでも、同じ言葉をきいてもまったく違う感覚になるということなんだと本当に心から実感する。 その頭じゃなくて体でわかるということが宗教に携わる上で一番重要なんだと思う。なにごとも真実は受け手しだいでいくらでも深くなる。 真実を探すのではなく今目の前にある真実を見抜く目をもつということが求道なんだと思う。
|
|