Title: 2006お彼岸

中道のこころ

最近小泉さんが安倍さんに勧めた本として注目を集めている本があります。渡辺淳一さんの「鈍感力」という本なのですが、

簡単に説明しますと鈍感力というものは、あれこれ色んな事にひっかかって心配したり考えることよりも適度に鈍感でいることが体にも心にもいい影響を与えるということを医学的に説明し、また職場や夫婦生活などの場に置いてなど様々なシュチュエーションにも重要になってくるということが書かれているわけです。

この本を読んで感じたのは、鈍感であるということは言い換えればこだわらない、とらわれない心ではないかと思うわけであります。このとらわれない、ということは、仏教の上でもとても大切なことではないかということです。

おおらかにゆったりと生きていくこと、人間というのはなかなかそうやって生きていきたいとおもってもなかなかいろいろ嫌なことを考えてしまったり、目先のことにとらわれて悩んでしまったりするのが自然です。そしてこのこだわりこそが人の悩みのすべての根元であり、苦しみを生み出していくのではないかと思います。

仏教を開かれたお釈迦様も一国の王子であった頃に、多くの煩悩にまみれている自分に疑問を持ち、そして生老病死の苦しみから逃れたいと思い出家をされ、初めはおおくのそのおおくのこだわりや執着を自分の力、自力で払拭しようとしました。そして有りとあらゆる方法、壮絶な苦行や修行を繰り返し苦しみをを振り払おうとしました。しかしそれで悟ることはできずに、そして最後に中道という精神にたどり着いたわけであります。

お釈迦様が初めて説法された時にこの中道についてこう説かれました。

「修行者たちよ、2つの極端に近づくな。第1には欲望に自己を奪われて快楽に耽ることである。それは低級で無益な事である。第2には、自分で自分を苦しめる事である。それは下等であって無益な事だ。どちらへもかたよらず、中道を歩め。これによって眼を開き、智を生じ、真の認識を得て澄み切った悟りに至ることができよう。」
 
中道とは、単に二つの間の中ほどの道という意味ではなく、とらわれを離れ、厳しく現実の真の姿を見極め、正しく判断し行動せよという意味があるわけであります。

私たちはこの現代に生きている中で、たくさんな物事にとらわれ、とらわれる事によって悩み、ストレスをため、苦しみ、正しい判断を誤りがちになり自ら苦しみを生み出しているわけです。そのとらわれからの解放、その方法と思惟することが仏教の根本になるわけです。

ここで問題になりますのが「とらわれる」とはどういうことなのか。お釈迦様のこうした考え方を示すものに 毒矢の例えというものがあります。

マールンクヤと言う若い弟子がある時 

お釈迦様に次のような質問をしたそうです。「世の中は常住なるものか それとも無常なるものか世界に果てがあるのかないのか霊魂と身体は同一か同一でないのか。死後の世界は存在するのかしないのか」と言ったような問題に悩みお釈迦様に解答を迫ったといいます。

それに対しお釈迦様はこのように答えられるわけです。

「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないだろう。ところが医者にかかる前に 一体この毒矢を射た人は誰かどんな名前の人か身長は、どんな顔の人でどこに住んでいた人かどんな弓で射たものでどんな矢じりがついていたのかと言ったような理論を追求していたら結局死んでしまうだろう。」 

「それとおなじで世の中は有限か無限か霊魂と身体は同一かそうでないか人間は死後も存在しているのかそのような問題に答えたところで私達の苦なる人生の解決にはならない。世の中が常住か 常住でないかについて見解を持ったところで私たちの老死、憂い、苦痛、嘆き、悩みは依然としてここにある。 

私はいま現実のこれらの老死苦を超えることを説くのだ。悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。」これは阿含経という教典の中に書かれている一節です。

つまりそのようなことにはこだわるな。とらわれるな。というわけです。お釈迦様は、人間の知識の届かない神秘的な事柄、祈祷や呪文、宗教儀式や、運命判断などそういうものの見解というのは想像にしかすぎずに誰にもわからないことである。そういうものに目を向けとらわれるのではなく、今の自分自身に目を向け、現実に目を向けることが大切であると述べられたわけであります。

浄土真宗においてもこのこだわらない。というのはとても大切なことです、こだわらないといいますと主義のないような曖昧な感じがしてしまいますがそうではありません。「もんとものしらず」ということばがありますがこれは浄土真宗の門徒は何も知らない。ということではなく。「もんとものいみしらず」ということになるわけであります。これは浄土真宗も門徒は、縁起をかついだり方角をきにしたり、物忌みをしらないという意味です。

つまりそういうものに振り回されるのではなく、法に依って、自らを灯火をし、しっかりと自分を見つめることを大切にしているということを指すのではないかと思います。なにかに偏らずこだわらず、おおらかに現実を見つめ受け止める姿勢を指しているわけです。ですので、お墓参りをしないから罰が当たるとか、仏壇に魂が宿るとかそういうこともきにしません。そういうことにとらわれると気にし始めたらとまらなくなってしまうのが人間です。いいときはそれでいいけれど、それがすぐにそれを失うことを考え恐れを生み出すわけです。そして悪くなるとあれは先祖のせいだとか、お墓の方角だとか、、とりつかれたように自分を苦しめてしまいかねないわけです。そうやって自分を灯火とせずになにかにとらわれていたらがんじがらめでいきていけなくなってしまいかねないわけです。そうやって自分自身で次から次に苦しみを生みだし、自分を苦しめると言うことはお釈迦様の中道の精神に反しているわけであります。

とらわれとはつまりなにかにすがろうとする弱さであり、現実から目を背けようとする自分の心が生み出す弱さではないかと思います。そしてつねにとらわれはまた新たな苦しみを生み出すわけです、その悪い循環に飲み込まれずにいるために、現実をしっかりと見つめること、自分自身の心、自分自身の悩みというものを、自分よがりにならず、勝手に自分のフィルターに通してどこに偏ることもなく冷静に自己をみつめること、これこそが中道の精神なのではないかと思います。

まさにお彼岸のこのお中日というのは、暑くもなく寒くもなく、昼と夜の長さも同じ、湿度や気圧もバランスが取れているこの時期に、お彼岸の法話が開かれるのは、仏教の理想とする中道の精神によるものでしょう。このお彼岸という日にまさに中道の精神をもって改めて自分ということ、生きていく、ということを見つめ直す機会になればいいとおもいます。

POSTED @ 2006.09.20 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。