Title: お彼岸原稿 お念仏をとなえるこころ


お念仏を唱える心ということでお話をさせていただきたいとおもいます。限られた時間の中ですのでどこまでお伝えできるかわかりませんがおつきあいいただければとおもいます。

ご存知の方もいらっしゃるとおもいますが、寂円寺では千葉県で幼稚園もやっております。わたしは普段平日はそちらのほうにいっているんですが、そこで感じたこと踏まえてをすこしお話させていただきたいと思います。


子どもたちとかかわる中で大人と子どもの違いはなんだろうということをよく考えます。そう考えながら子どもたちの日常をみていますと、

仲良く遊んでいた子どもたちもときにけんかをする。それこそ叩き合ったり。悪口を言ったり。気に入らないときにはとことんけんかをします。

でも、すこしするとまたけろっとして2人でなかよくあそんでるんですね。

これは大人にはなかなかできないことです。

大人であったら、あああんなこといってしまった。いいすぎたかな。とか切り替えがすぐできないから。とかどんな顔してあえばいいんだろう。見栄とか体裁とかまじりっけだらけです。そういうことが先にきてすぐにけろっと仲直りすることはできません。

ごめんね。いいよ。がなかなかできないんですね。

また。

子どもをみていますと。正直これのなにが楽しいんだろう。そんなことしたらこの寒いのに泥だらけになって着替えなきゃいけないのにあ~あ~なんておもうようなことを。にこにこしながら楽しんでいるわけですね。

でもその顔はほんとうにたのしそうです。ああ今日は午後から習い事があるから少し体力を温存しようとか、今週はまだ月曜だしはしゃぎすぎないようにしようなんてことはまったく考えていません。そもそも1日が24時間で一週間は7日あるという概念を頭において生活していないんですね。いま。ここ。それだけを楽しんでいるわけです。まじりっけなく楽しむことだけに集中しているわけです。

これもなかなか大人になるとなかなかできません。

また絵を描いていても粘土でなにかをつくっていても歌をうたっていても。

うまくつくろうとか。いいものをつくろとか。うまくうたおう。そういう気持ちではなく。
純粋につくるということをたのしんでいる。その行為をまじりっけなくたのしんでいるわけです。

完成をイメージしているのではなく。おもうままこねて。おもうままかきおもうまま歌うと。そうするとこうなりますというような作品をたくさんみせてくれます。完成をイメージしないでなにかを創る。

これもなかなか大人にはできません。

大人になると知識や経験がたくさん増えます。そういうものが蓄積されると知識や経験を通して合理的にも動けるようになるし、また、たいていのことは自分でこなせるし、経験上うまくいく方法というのが思いつきます。そして後先ということをつねに頭において行動してしまうわけですね。まじりっけだらけです。

そしてなにごとも自分の中にある蓄積されたもので物事を判断しようとするわけです。つまり頭からさきに物事を判断するようになるわけです。

その頭から先に考えることで心の中にたくさんのまじりっけが生じてくるわけです。

これが大人と子どもの決定的な違いではないかなと感じたわけです。またもうひとつ子どもたちと触れ合うなかで感じた決定的な大人と子どもの違いというのがあります。

それは子どもというのはよく大人なんだから。大人でしょ。子どもには無理だよ。ということをいいます。自分は子どもである。そしてあとは大人がなんとかしてくれるというラインをしっかりとわきまえています。自分にはできないことがある。ということをしっかりと自覚できているんですね。

どんなにしっかりしている子でも、先生あっちいってて!といって遊んでいてもやはり、転んでしまったり、なにか問題があると、すぐに先生のところにきて先生!と駆け寄ってきます。さっきまで生意気な顔をしていた子もそのときだけは子どもの顔になっているわけです。そして先生やお母さんがくると突然セキをきったように泣き出したり。こころから安心したような顔を見せてくれます。

これも大人になるとなかなかできないことです。

大人になると大抵は自分でできるようになります、そして見栄や体裁などが先にきてしまい簡単になにかにすがろうともおもわないし、だれかに助けを請うということもなかなか素直にできなくなります。まただれかにすがってセキをきったようになくなんてもってのほかです。そんなもん自分でなんとかなる。とおもってしまうことがほとんどです。物理的なことが自分でできるようになり、たくさんの経験をつむと人間というのは自分の力ではどうにもならないことがあるということをすっかり忘れてしまいがちです。同時に生きているということですら自分は一人でいきているんだと思い込んでしまうことがあります。

子どもの時には自分にはできないことがあるということをしっかり自覚できてたはずなのに、一人ではいきていけないということにしっかり気づいてはずなのに気づくと人間は大抵はなんでも自分でこなせるとおもって一人で生きているとおもってしまっているわけです。

この大人と子どもの決定的な違いである自分を自覚する心というのは浄土真宗の中でもとても大切なことではないかとおもいます。また大人になっても、経験しても知識や体験や年の功でも対応できない問題というものがこの世の中には事実たくさん存在することを忘れてはいけないんだとおもいます。

むしろそこをしっかり自覚をしないと真宗、また宗教というものの本質を見失ってしまいかねないほど重要な部分ではないかとおもいます。

真宗において一番大切なことはお念仏「南無阿弥陀仏」ということを唱えることです。「念仏を唱える」一言で言えばこれだけなんですね。しかしそれだけだからこそその一言をどうとらえるかということがとても重要です。

ここで一番大切になってくるのがその自覚をする心ではないかとおもうわけです。

念仏を唱えればあみださんが救ってくれるからそれを信じて念仏してみよう。と考える人がいるかもしれませんが、しかしそれこそまじりっけのある大人こころではないかとおもうわけです。それでは頭から先にはいっているような気がしてしまうわけです。救われるから信じる。救われるから唱える。そういう気持ちでいますと同時に、こないだ自分が困ってるときに救ってくれなかったじゃないか。念仏となえてたのに。念仏なんてなんのいみないじゃないか!もう信じるのやめようと。まるでお念仏がそれを唱えればなんでもOKだというような呪文のような解釈になりかねないわけです。

これの間違っているところは救われるから信じる。救われるなら唱える。といったように救われるということが先にきてしまっているところではないかとおもいます。

しかし正しいお念仏の捉え方では救われるということは先に来ないんですね。

救われるから信じるのではなくて、信じるから救われるんです。

ここの順序が大切なんではないかと思います。

浄土真宗ではこの信じる心を信心といいます。そしてその信心をえるために必要なのがこの自覚になるわけです。

自分はどうしても同じようなところ、同じような出来事が起きるたびにいらいらするしモヤモヤするし、同じことで苦しんでるなぁ。もう何年も自分と向き合ってきたけどんなに冷静になろうと思っても、何度反省しても、ずるいこともいやなことを考えてしまうしひとをねたんでしまったりすると。どうしても簡単なほうに逃げてしまうな。とかわかっちゃいるけどやめられないな。そのたびに苦しい思いをしてしまうなぁ。どうしたらいいんだろうな。ということをしっかりと見つめて、さてそんな自分をどうしたもんか。

その時に原因や解決方法やいい訳をさがそうと外へ外へ目を向けてその方法を探すのではなくそこでしっかりとそういう自分をみつめてみる。目をそむけたり悲観したりするのではなくしっかりとその事実をみつめる。

そこでああ自分はつくづく凡夫なんだなぁという発見することが大切なんですね。

そしてその発見ができるとはじめてこりゃいよいよなんとかしてもらうしかないな。自分の力ではどうにもならないなぁ。もう自分の力、自力だけではどうしょうもないですよ~という気持ちになれらときにはじめて心からなにかにすがろうという気持ちがわいてくるわけです。

その気持ちこそがお念仏を唱える心といいますか。お念仏を唱えるときの心持なんではないかとおもうわけです。

こういう気持ちにこころから気づいて受け止めてお念仏を唱えると。なまんだぶつなまんだぶつと。手を合わせてこんな私ですがもう降参しましたのでお願いいたします。お任せいたします。とこころから白旗を揚げて降参した瞬間に自力の枠をこえてこころがふっとかるくなる。それが阿弥陀仏の救い他力の本願の入り口なのではないかとおもうわけです。

そういう意味ではお念仏というのは救われるから唱えるものではなく。唱えようとおもうこころがわいてそれを口にしたときにはもう救われているものではないかとおもうわけです。

よくお念仏にであう。という表現をされる方がいます。お念仏。南無阿弥陀仏という言葉はただ唱えるだけではなく自覚を通してはじめてであうことができるものなのではないかとおもいます。

白旗を振るということがなかなかできない大人のこころと素直に白旗を掲げられる子どものこころ。

真宗においても大切なのはためらうことなく白旗をあげられる心なのではないかと思うわけです。

この素直になにかにすがる心。なにかに素直になれる心というのは、本来人間みんなもっているものなんではないかとおもいます。しかしいろんな経験をして年を重ねるごとに、外へ外へ目を向けるようになり、その大切な部分を見つめることを忘れてしまうのではないかとおもいます。

真宗、宗教において一番大切なのは自分をしっかりとみつめることです。自分だけのものさし。自分だけの知識ではなくただしいどこにもよらない目で自分をしっかりとみつめることが大切ではないかとおもいます。このお彼岸をご縁に自分というものをしっかりとみつめる機会をいただけたらとおもいます。

幼稚園にいきましてこどもをみていますと自分と対比させられたり、考えさせられたり。たくさんのことを学ばされます。生前祖父が残した色紙に童心を育むとは童心に学ぶということではなかろうか。とかかれたものがありました。

最近になってやっとすこしだけその意味がわかったようなきがします。

そろそろ時間になりますのでこのへんで私の話は終わらせていただきたいとおもいます。

最後までご静聴くださいましてありがとうございました。


POSTED @ 2008.03.26 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。


  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。