Title: 2008お彼岸 悪人正機
2008.09.23


今回は親鸞聖人の説かれた悪人正機ということについて少しお話させていただきたいと思います。

歎異抄の3章の冒頭にでてくる一文に「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という1文があります。意訳しますと、善人が救われるというのならば、悪人が救われて当然だ。つまりは阿弥陀さまはそういう区別なくあますところなくすべての人を救うということになります。

普通はであれば、悪人が救われるなら善人が救われるなら当然だ。というならわかりますが、親鸞聖人はまったく正反対のことをいったわけです。

なぜそのようなことを述べたのかというところを考えていきたいと思います。

まず悪人をイメージしてください。と言った時に多くの人は、泥棒や人殺しなどの犯罪者や、さらには人相や柄の悪い人をイメージしるのではないでしょうか。そうしますと逆に善人といえば、温厚で穏やかで、にこにこした、人をイメージするのかもしれません。

しかしそんな漠然としたイメージだけで多くの世間一般的な善や悪というイメージというのはわかっているようで、実は曖昧で確実な基準というのはないわけです。

ひとつ例え話があります。

ある地方の銀行で最近ECOがブームであるということを踏まえ、ECO預金というものをスタートさせました。このECO預金というのは、自分の町の河川の汚染がさがったり、ペットボトルのリサイクル率があがったらその分金利を上げるというサービスだそうです。

地球のため町のためになって金利もあがるということで、大人気のサービスで、その銀行には通常の何十倍もの預金があつまったそうです。預金をはじめて1年でみごとその町の河川の汚染もさがり、そのまちでは水がきれいになり、ペットボトルのリサイクル率があがったそうです。

預金をした人も地球のため、みんなのため、また自分の預金も増えるということでそのサービスは大好評だそうです。一見いいことづくめのようですが、銀行というのは預金で集まったお金を今度は増やすために貸し付けや融資を行うわけですが、そのECO預金であつまった普段よりも何十倍ものお金を他の国に投資するわけです。

そうするとその投資されたお金でその国は開発を行うわけです。普段の何十倍のお金で普段の何倍もの伐採がおこなわれ、たくさんの重機からはふだんの何倍ものCO2が排出されます。

差し引きしますと、自分の街は1年で見違えるようにきれいになったかもしれませんが、地球規模では1年で砂漠化してしまった土地がたくさんできたわけです。その土地ですむ所を失った人住めなくなった動物がたくさんいるわけです。

この場合、いいことをしているつもりでいた預金者はしらないところでこういうことを生み出しているわけです。

この預金者は善人か悪人かといわれればとても曖昧になってしまいます。

人間は目に見えるものからみえないものまでたくさんのかかわりと関係の中に生きていることは事実です。人間というのは、このように自分の知らないところで、いくらいいことをしていると思っていてももしかしたらどこかで誰かを傷つけたり、悲しませたりさらには罪の大小にかかわらず法律に触れてることだってあるかもしれません。いくら自分の目の前で正しいと思うことを貫き通していてもそれが絶対であるかどうかなんてことはわからないというわけです。

親鸞聖人も歎異抄の後序の中で善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。とつまりは善と悪このふたつはなにがよくてわるいかは自分の知り及ぶことではないと述べています。つまりは私たちのする善悪の区別や判断などあてにならないし、絶対でないということを述べているわけです。

現代は情報社会です、自分もそうですが、テレビをみていて、あいつは悪い。こいつはいい。また勝ち組や負け組など、だれかがだれかを判断して、あたかもその価値観があたりまえであるかのように蔓延しています。自分はしっかりしているから大丈夫だ。自分でしっかり判断してる。関係ないとおもっていても価値観までも刷り込まれてしまう時代です。いつその中に自分がはいっているかもわからない。そして知らないところでたくさんの犠牲をしいているかもしれない、大きな勘違いで悲しむ人を生み出しているかもしれないという事実がここにはあるわけです。

阿弥陀さまはそういう人間の勝手につけた善とか悪とかそのような区別など一切関係なくもっと大きな目で私たちをみてくれているわけです。そしてすべての人を余すことなく救うと述べているわけです。

しかしこれを理解するというのはなかなか難しいことです。自分自身少し前にある宗教戦争の報道映像をみました。インドネシアである村が宗教対立するほかの村人に虐殺されるという事件がきました。その映像はあまりに凄惨なものでした。首をおとされた人、また1歳にも満たない子どもまですべての村人が悲惨な殺され方をしました。ただ宗教が違うという理由だけで。

その映像の中に殺した人も映っていました。しかしその顔は自分はなにも間違ったことはしていないといわんばかりに堂々としているものでした。

その映像をみていて、自分の中に一番はじめに浮かんだのが、悲しさとまた同時にこの悪人正機という言葉でした。先ほど話しましたが、人間のつけた善も悪も絶対的な価値観はないと。阿弥陀仏はすべての人をあますところなく救ってくれると、善人がすくわれるなら悪人がすくわれて当然だというわけです。

そう考えればこの犯人も救われて当然なわけです。法律を犯すどころかこんな残虐なことをした犯人でさえです。

そのとき自分の中にわいた悲しいという気持ちと、悪人正機の教えというものが消化できないまましばらく考えていました。頭ではわかっているつもりですが、はっきりいえばこんな犯人でも救われるということが腑に落ちなかったからです。なんで親鸞聖人はそんなことをいったんだろうか、阿弥陀さまはそういう人も救おうと思えるのはなんでだろうか。と思いました。

そのときに歎異抄の中にこんなやりとりがあったのを思い出しました。「唯円房は私の言う言葉を信じるか」と仰せられたので、「信じます」とお答えしましたら、「では、私の言うことに背かないだろうな」と念を押されたので、「その通りにします」とお答えしたところ、「では、人を千人殺してきなさい。そうすれば浄土往生は確定するぞ」と仰せられましたが、「仰せではございますが、私の器量では、一人でさえも殺すことは到底出来ません」とお答えしましたところ、「では、どうして親鸞の言葉に従うと言ったか」と仰せになりました。「これで分かったであろう。何事でも自分の思い通りに出来るのなら、浄土往生のために人を千人殺せと言われたらその通り殺せるはずだ。しかし、一人でも殺せないという理由があるから殺すことが出来ないのだ。自分の心が良いから自分がいい人間だから殺さないということではない。殺さないでいたいと思っていても、百人も千人も殺すこともあるのだ」と言われました。

この文章を何度もよみかえしてみて、このやり取りの中にあるものがまさにいま自分の思うところにぴったりと当てはまる気がしました。

人間というのは、見えないたくさんの価値観や、情報や関係性、苦しみやしがらみに振り回されていきています。その中で人生の選択を間違えないように自分の意志で選択をして生きていると思いこんでいきています。しかし、その自分のよかれとおもってした判断の中でもしらないだけで、誰かを犠牲にしたり、もしかしたら苦しめているかもしれません。先ほどの預金の例のように自分の行為がどこかでだれかの苦しみにつながっている可能性はあるわけです。逆にだれかを苦しめてやろうとおもってしたことが誰かを救っていることだってありえるわけです。

自分の行動がすべて自分の思い通り狙い通りにいくかといえばそんなことはないわけです。

じゃあなにを基準に行動すればいいのかといえば、いま自分にできるのは自分の思ったことをするだけです。それが正しいか正しくないか、善か悪かなどということは考えぬいてもわからないわけです。自分が「思う」ということ「行う」ことも本当は自分の力を超えた大きな流れの中にあるわけです。自分だけでなく誰かが起こした事件すらもその大きな流れの中でおきたことなわけです。

理由さえそろえば自分も誰かを殺してしまうかもしれない、殺したくなくても、もしかして家に強盗が押し入ってきてきたら家族を守るためにその犯人さしてしまうかもしれないし、宗教の対立で村人をたくさん殺した犯人と、同じ立場で、同じ関係性の中で生まれ育ちその場にいたのがもしも自分だったとしたら、絶対にそれをしなかった。といいきれる根拠はなにもないわけです。そういう弱さ、あやうさみたいなものをだれもが抱えて生きているわけです。

その人が殺すのをためらわなかったのにはためらわないだけのなにかがそこにあったからというわけです。

その理由、なにかというのは仏教では因果とか宿業ともいいますが、その因果は自分の力でどうにでもなることではなく、それが他人からもたらされるかもしれないし、家族や育った環境からもたらされるかもしれないし、自然からもたらされるかもしれないし、さらには時代によってもたらされるかもしれない。それは誰にもわからないわけです。因果は自分の力ではどうにもならないおおきな流れであるわけです、そして人間はその中で生かされているわけです。

そう考えますとたまたま自分がここに平和にいきているのは、そういう理由がそろわなかっただけで、いつそういう理由さえそろえばなにをするかなんてわからないというのがわが身であるわけです。

事実敵を倒すということを公然と求められていた時代が数十年前にはあったわけです。

理由さえそろえばいつでも自分も同じだということです。その事実だけに善だ悪だと決めつけることはできないわけです。

一つの事実や出来事には必ず背景があるということを忘れてはいけないんだと思います。窮鼠猫をかむという言葉がありますが、追い詰められたネズミが猫をかんだらネズミだけが裁かれて悪人あつかいされているようなものではないかと思います。鼠が命をかけるほど追い詰められていたという事実にも目を向けなければいけないわけです。その事実はいつ自分のみにふりかかるかもわからないわけです。

追い詰められてかみつくなんて、それは弱い人だけだと思うかもしれませんがその弱さや恐ろしさも自分の中にもあるということ、それを自覚するということが大切なのではないかと思います。

人間はいつどのような因果がめぐってくるかわからないわけです。

阿弥陀仏の救いというのはそういう生きとし生けるもの、追い詰めたものも、追い詰められたものも、犯罪をおかしても犯していなくても、すべての因果に生きる生きとし生けるものすべてにむけられたもので、いくら自分の力でただしく生きていこうとしてもできない人間という存在そのものに向けられているわけです。その阿弥陀仏の心をその心を大慈悲心といいます。ここには悲しみという字が含まれています、そのような弱い人間を慈しみ、そして悲しみ、一緒に泣き寄り添ってくれると、救わずにはいられないというのが仏の願いなわけです。とても深くあたたく、ありがたい心だと感じます。

そのような弱い人間を仏教では凡夫といいます。そんな危うさや弱さを抱えた私たちが善とか悪とかそれを区別できるはずがないわけです。凡夫の私たちは自分で判断しているとしてもそれが正しいかどうかということはわからないしいつ自分本位の考えに偏っているかわからないわけです。自分自身はじめにあの犯人も救われるということは理解できないと思いましたが、そう思う自分のなかにはあんな人間と自分は違うんだというおごりがあったのかもしれません。

自分本位といえば、テレビをみているととある愛犬家の方が、動物虐待のニュースをきいてひどくこころを痛めていました。しかし人間というのは犬だけではなく、生きるということはたくさんの動物の命を奪ってなりたっているわけです。今日だってたくさんの命を口にしていきているわけです。犬だから駄目で、牛や鳥ならいいんだ。という理論にはなんの根拠もなければそこに善悪の区別もつけられるはずがないわけです。そういいますと、食べるために殺すのと悪戯に命を奪うのは違う。と思うかもしれませんが、この飽食の時代に目の前のだされた肉を一口も残さずに食べてきた人はいないと思います。今日はおなかいっぱいだからいいや。もったいないけどのこそう。時には冷蔵庫の中であらこのお肉賞味期限切れてるわ。とただ廃棄されている肉は年間何万トンあるわけです。命にしたらどれだけの数になるかわかりません。

それだっていたずらに命をうばってるのかもしれません。

一番見えにくく一番近くにいて一番遠い存在が自分であり、それが人間です。

一番はじめに、悪人をイメージしてください。といいましたが、そこでまず自分も顔を思い浮かべた人はいないと思います。それくらい人間というのは自分以外のことは他人事になってしまっているわけです。あんな人間ではない、自分がそんなことをするはずがない。さらには自分の身にそんなことが降りかかるはずがないとたかをくくってしまいます。

清沢満之というかたの言葉で「宗教は自覚である」という言葉が少し前まで門前の掲示板にはってありましたが、真宗の入り口、さらに宗教の入り口というのはまずは自分自身に目を向けることですです。自らの身をただしい目で見て凡夫であることを自覚をするということが大切なのではないかと思います。さらにいえばこの自覚というのは、目の前にある事実を他人事としないで自分の中にしっかりと落して考えるということでないかと思うわけです。

それが真宗でいう聞法の入り口であり自力を離れ他力に依るということなのではないかと思います。その自力の無力さをしり他力を知ることを回心といいます。

その深い自覚を感じ回心した時に初めて自力いうものの無力さを痛感するわけです。そして自らの身をなにかに救いを求めざるをいられないわけです、そこに信心がうまれ自然と口をお念仏がついてでる。

阿弥陀さまがいるから信じて自発的にお念仏をしよう。ではなくて

救われるしかない自分に深く気付いたところに阿弥陀様がいるわけです、そしてそう感じた自分の中から、お念仏があとから自然と口をついてでるわけです。

なまんだぶつなまんだぶつ。

このようなわが身を一切おまかせいたします。といういみです。わが身をおまかせして目の前の現実に深く手を合わせしっかりとそれを受け止めて生きていく。その心の中、その姿の中に阿弥陀様がいるのではないかと思うわけです。

今回このお彼岸という日を機縁に自分自身も改めて見つめ直す機会をいただければと思います。今回お話しました歎異抄の13条というのは、一見今回の話の中でも感じた方がいるかもしれませんが、悪いことした人を擁護しているととらえられがちです。それが親鸞や法然が流罪になったことの発端にもなった部分であり、真宗の教義という点ではとても深い部分であります。とてもこの時間の中には語りつくせないものがあります。そんなとても難しいテーマでお話をさせていただき自分自身まだしっかりと受け止めきれていない部分もあり、たくさんの疑問も抱える中でわかりにくく伝わりきらなかった点もたくさんあったかもしれません。最後まできいていただきありがとうございました。

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Title: いわんや悪人をや。
2008.09.19

今回歎異抄の13条を何度も読み返して、いままで自分がそこにあったものを読み違えていたことに気付かされ衝撃をうけるとともに、また真宗の奥深さをしった。

悪人正機の意味をはきちがえて、阿弥陀仏は悪人を真っ先に救うということをいう人たちがいて、阿弥陀仏に救われるなら悪事を働いてもいいし、むしろ悪事を働いたほうがいいという輩がいた時代に、普通はいくら阿弥陀仏が救ってくれるからといって悪事を働くのはやめろ。悪いことのし放題でいいわけない。というのは当たり前にみえるし、自分自身そりゃあたりまえだろ。と思ってたけど、

しかしこの13条は、逆にそうやって本願に甘えて悪いことのし放題はいけない!と強く主張してもっともらしいことをいうことこそが、阿弥陀仏の本願に背いているとうことが書かれているわけだ。

ほんとうにここで言われていることは人間の陥りやすい弱さというか脆弱さだ。

今回、「悪人正機」をテーマに話をさせていただくにあたって、いろんなことを考えてわかったこと気付かされたことがたくさんあったと同時に、おんなじくらいの疑問にぶつかって、でもそういう本気で頭や心や体や五感をフルにつかって考えていけるような疑問にぶつかれるということは幸せなことだと感じる。

悪人を思い浮かべてください。といったときに自分の顔を思い浮かべる人がいないということがまさに「いわんや悪人をや」なんだろうな。

しかし、真宗は深いがゆえにたくさんの危険性をはらんでいるのもたしかだ。これをしっかりと感じていなければただ単純に悪いことを擁護してるととらえられかねない。実際それが発端で流罪になったわけだし。

ああ。なむなむ。

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Title: POSO
2008.09.04

「POSO」をみた。

それがどんな動画かは検索すればいくらでもでてくるので説明は省くけど、ああいう動画をみて何を感じるかということは人としてものすごく大切なことだと思う。自分は現実から目をそむけてなにも得ないよりもそれを直視して何かを得るような生き方をしたい。

POSOをみてからしばらくものすごいへこんだし、なんか胃の中がもやもやといやな感じがして、頭の中で宗教ってなんだろうとか、ぐるぐるぐるぐると一晩中まわってた。でも自分がなにかそういう壁にぶつかったときにやっぱり戻ってくるのは真宗なんだなということも改めて再認識した。

POSOをみて感じた一番の感情の感情は悲しさだった。悲しさと同時に浮かんだ言葉は「悪人正機」だった。

まず思ったのは、首をつかんで叫んでる男や、小さな子どもの頭をきりつけた人も、老人の腕を切り落とした人も、悪人正機の教えからいけば救われるわけで、あの動画をみた直後に頭の中でその事実をどう処理しようか、そこにはどういう意味が込められているんだろうかとか、自分のなかで納得できない気持ちでささくれだったままもやもやとした。

言葉でいうのと心で感じるのとでは全く違うし、自分の中でまだうまく処理できていないのでうまく伝えられるかわからないけど。

でも思うに、自分の中でその殺したほうの人間に対してやはり悪人だというレッテルをはっているけど、もしかしたら自分は絶対に理解できないと思っていたとしても、もしかしたらどこかでなにかが一歩間違ったら自分がいつその加害者になるかなんてわからないということは極論事実だし。

悪人正機の指す悪人は法律を犯した人間を指すわけではなく、あくまで自分自身、または人間自身の中にある不確かな価値観をさすという前提にたって、頭で考える善悪ではなく、むしろ頭で善悪を判断してしまう人間自身を指すわけだ。

言葉にすると本当に難しいけど。あの加害者が悪であるということではなくて、あの加害者にあの行為をさせてしまったのはなにかの因果があってのことで、人間は因果がそろえばそういう行為に至ってしまう弱さをかかえて生きているということのなによりの証拠で、それは決して他人事ではなく、因果がそろっていないだけで、あくまでそうなりうるものは間違いなく自分の中にあるという根源的な事実をしっかりと認識する必要があるんだと思う。

さらに、POSOをみて初めに感じた感情は悲しさだった。その時にふと思った。

観無量寿経に仏の御心は人々を救わずにはいられない大慈悲心であると書かれている。慈悲心。この中にも「悲」という文字がある。この「悲」という文字がなにを指すのか、なんで仏の心の中にも「悲」があるのかを考えた。

思うに、あくまでこれは自分の思う解釈だけど。

この「悲」はきっと一つの事実に対して他人事ではないという感覚からくるものなんじゃないかと思う。自分と他人という感覚ではなくて。おなじ人間として。

さっき因果という言葉を使ったけど、あくまで自分には因果がないだけで、いまここに平和にいきているけど、なにかがそろえば今の自分には考えられないようなことをするかもしれない。戦争だっておんなじだ。戦争の中で一番醜いのは人間で一番尊いのも人間で。その二面性は間違いなく自分の中にある。

仏の慈悲心というもの、そこにある「悲」というのはその二面性をかかえて弱くもろく、いろんなものになびき生きていかなければいけない人間そのものに向けられたものであって、その前では先に述べた、法律のどうこうであったり、善悪の区別ということを超越したところにあるものなんじゃないかと思う。だとしたら本当に懐が深くてものすごいことだと思う。


さらにこの感覚は、親鸞の弥陀の本願はひとへに親鸞1人がためなりけり。と述べた一文にもつながってくるような気がする。

あくまで弥陀の本願は人間そのものにむけられたものであって、悪人とか善人とかそういうものではなく誰かを限定にしたものではなくて、あくまで人間自身、自分自身のためにあるわけで、つまりは自分が救われるということは同時にすべてが救われるということにつながってくるわけだ。

さらにいえば。

自灯明・法灯明という言葉はまさにその心を表わしているわけで、あくまで宗教は自分のためにあるもので、自らを灯として法を灯とする。ここで阿弥陀を灯として仏を灯としなさい。ではないところがものすごく自分の中で素直に了解で来たような気がした。

宗教とか自分の中で感じたことを言葉や文字で表現するということはものすごくむずかしい。感応道交やっぱり宗教は感覚の世界なんだろうな。きっと伝わる人には伝わるけど伝わらない人には伝わらない。

でもある記事の中に、口がうまいとか、表現がうまいとかそれだけで物事が伝わるかといったらそうではない。口がうまくなくても、表現が下手でも真実は必ず伝わる。でなければ宗教がここまで根強くのこってこれたわけはない。というのを読んでほんとうにそうだと思った。

ほんと全部ひとことに凝縮すると、なまんだぶつ。これしかないんだよな。ほんとに。この5文字だけで何かを伝えられるようにならなくちゃいけない。

宗教は自覚だ。


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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。