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Title: 断片的なものがつながるということ
すこし前におじさんが亡くなった。 おじいちゃんの兄弟だから普通はそんなに近くない親戚なんだろうけど、いつもお寺にきてたし、うちの親戚はみんな近いから、小さい頃から遊んでくれて、いろんなことを教えてくれて。おれにとってはほんとにおじいちゃんみたいなものだった。 戦時中は海軍に志願して出兵して生きて帰ってきて、お寺のためにたくさん尽くしてくれて、戦後は講談社の写真部にいた人で、戦争の話もおれが生まれるずっと前のお寺の話しもよくしてくれた。遊ぶのが大好きで、裏表が無くて、口がものすごく悪くて、おれもついこないだまで、幼稚園いい加減にやってないだろうな!なんて顔会わせるたびに言われてたし、死ぬ前の日まで看護婦さんを怒鳴るような人だったのに、でもいつも周りにたくさんの友達がいる人だった。 最後に50年来の友人が挨拶をしていた。 あんなにいい男はみたことがありません。 本音でつきあえる。じゃなくて。 自分にもこの人と同じ血が流れていると思うと嬉しかった。 火葬場で棺が釜の中に入って蓋が閉められたときに涙を流すのは、きっとそれで終わりだと思うからで、なにか自分やこの世界から切り離されたところへいくって思うから切なかったり、寂しかったりするんだと思った。 でも、なんか亡くなったおじさんを見ても、骨になっても、なんかそこにあるのは、誤解されるかもしれないけど、ただの亡骸で、ただの骨にしか思えなかった。 実感がわかないだけなのかとか、認めたくないだけなのかと思ったんだけど、そうじゃなくて、そんな逃避的で断片的な感覚じゃなくて心からそう感じて、 なんか、ああ生きてるってのは 心臓が止まって、息をしなくなって、骨になっても。 おれの中に、おじさんの言葉も、顔も、声も、生き様も。 そういうのがぜんぶ生きてて、それが間違いなく吸収されてて きっといつでも会おうと思えば会えるんだよね。 全然終わってなくて続いてるんだよね。 物理的には終わったけど逆にいつでも会えるじゃん。とすら感じた。 清沢満之という方の臘扇記という本の中に われらは死せざるべからず。 という一文がある。 はっきりいってちんぷんかんぷんで はっきりいって意味不明だったんだけど おじいちゃんが好きだったから意味わかんないなりにも 火葬場で、この一文を突然思い出して ああ。これってそういうことかも。って思った。 それが正しいか間違ってるかはわかんないんだけど 生きるってことは、息をして、心臓が動いてるだけを指すんじゃなくてすごくおぼろげだけど意識や、観念やそういう輪郭のないものの中にこそあるのかもしれない。 目に見えるものしか信じられないのは、人間がいかに枠にとらわれて、生きるとか、死ぬとかを人間のものさしでしかはかれてなくて、生きることにしか目を向けてないからじゃないかと思った。 これを読んでる人の前におれが居なくても きっとその人の中でおれが生きてるのと同じなように。 家のパソコンの前だろうと、トイレの中だろうと。 目の前にいようといまいと。 それが東京でも極楽でも。 おんなじなんじゃないかと思う。 そう思えば、墓や仏壇にはには魂なんかやどんないし、 手を合わせるのはどこでもできて、 きっと宗教ってそういうことなんだと思う。 書く言葉や言ってることは同じでも、はっと気づいたときに断片的なものがつながって自分の中でぱぁっと明るくなって。同じ言葉や文字をまったく違う感覚でとらえられるようになって、あそこに書いてあったのははこういうことか。この感覚はあそこに書いてあったあれじゃないかって。宗教に触れるってのはこういうことの繰り返しなんだと思う。 これを言葉にするのは難しいし、ましてや同じ経験をしてない人に同じように理解をしてもらおうなんてことは途方もないことだとおもう。 お釈迦様だってはじめ悟りの境地を1人で楽しんで人に説いてもどうせわかってもらえないとあきらめようとしたくらいだから。 でもこういう瞬間に立ち会うたびに、自分の中が明瞭になって。 すごくここに生まれてよかったと思う。 この文章を何年、何十年後かに読んで、きっとあの時の自分にはまだ欠片しかみえてなかったと思うかもしれないし、ああ全然わかってなかったなと思うかもしれない。 むしろそうであって欲しい。
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