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Title: 2006お盆
南無阿弥陀仏のこころ 今回は浄土真宗の方なら皆さん普段聞き慣れたお念仏。「南阿弥陀仏」ということについてお話しさせて頂きたいと思います。限られた時間のなかでどこまでお話しすることができるかわかりませんがまずは原点にもどりお話をさせていただきたいと思います。 もちろん私自身お寺で生まれ育ち、お念仏とは近い距離で生きてきたわけでありますが、浄土真宗においてお念仏が最も重要だということは言うまでもないわけであります。
そしてその歎異抄に一貫されているテーマこそ念仏になるわけであります。 南無阿弥陀仏とは桑原桑原のように意味のない呪文のようなものではなく、大切な意味、そして真宗の教えの中心となる意義がこめられているわけであります。 まずはじめに「南無阿弥陀仏」ときいたときに「阿弥陀仏」という部分はそもそもこれは、インドの言葉でアミタユースという意味の言葉で「無限の命」「無限の光」という言葉を指し、絶対的なもの、これは私たちを救ってくれる存在と解釈できるのではないかと思います。ここはなんとなく了承することができるのではないでしょうか。その「阿弥陀」とはつまり法蔵菩薩を指すわけでありますが。毎回ご法事の時におあげする嘆仏偈というお経がありますが、それはこの法蔵菩薩が阿弥陀仏になるために、修行をされているときに世自在王仏という方にお会いになりそして悟りを開き阿弥陀仏になることができたわけであります。法蔵菩薩は阿弥陀に成る際に、多くの人が佛の道を進もうと願っているにもかかわらず自らの弱さのために、それを果たせないことをみて自分の力で修行をはたせない弱い人たちも罪のあるものもないものもすべてすくわれる方法があるはずだと。そして四十八の願いを立てられた。この願いがすべて達成されなければ私は決して佛にならない。と誓われるわけであります。そして法蔵菩薩は、すべての願いを達成し、「阿弥陀」になられた、つまりは法蔵菩薩が阿弥陀になられたということは弱い人間も罪のある人間もすべての人間が救われる方法がすべて達成されたということであります。そして、あなたたちが行ずべきことはすべて私がかわりに行じました、安心して私の名前をよびなさい。と教えられたわけであります。 ではその前の「南無」は何を指すのか。善導大師は「観経玄義分」の中で「南無」とはすなわち「帰命」であると述べておられます。つまり「命」とは一般的には命令をさすわけでありますが、この場合「阿弥陀」の教えとう事になるのではないかと思います。そして「帰」はそれに依る。つまりこの文章だけを解釈しますと、 「南無阿弥陀仏」とは阿弥陀仏の教え、つまりは、自ら行を積み悟りを開くことができない我々衆生のかわりに行ずべきことをすべて行じてくれた阿弥陀仏に対する信じます、お任せしますという呼びかけの声であるといえるわけであります。 さてここまでが南無阿弥陀仏の文字だけを解釈したものになるわけです。 普通呼びかけというとこちらから、自らの意志だけで発して呼びかけると感じるでしょうがそれについて曽我量深先生は 南無するということはわれわれ人間の方からするように思ってる人がいるかもしれないが、佛の方からも我々衆生に向かって南無なさる。と述べておられます。 さらにこのことを 佛は決して力まずに、佛の方から一切の責任を引き受けて、十方三世の諸佛に頭を下げわれら一切衆生に頭を下げて南無の成就阿弥陀仏になられたのであります。と述べています。 これはどういう意味なんだろうかと考えていたときに、ある本の中にこれについて興味深い話しがのっていました。 小さな子どもがどこか、右も左もわからない知らない場所で迷子になってしまったと。 これを考えてみますと、つまりお母さん!と発するのはたしかに子どもなのですが、なぜおまわりさん!やだれか他人ではなくお母さん!になるのかという事に着目してみますと、それはつまりお母さんは必ず自分を救ってくれる、すべてを受け入れてくれる存在であると言うことをその時点で子どもはしっかりと自覚しているわけであります。そしてなによりも子どもは今の状況を自分ではどうしょうもないこともしっかりと悟っているからになるのではないかと思います。 余談ですが普段私は幼稚園の方にいってるわけでありますが、怪我をしたり具合が悪くなった子どもが先生達の前ではぐっと涙をこらえていたのにお母さんの顔をみた瞬間にせきをきったように泣き出すという光景をしばしば目撃しました。母親はすべてをうけいれてくれるとしっかりわかっているからこそ気がゆるんでしまうのではないでしょうか。 ではなぜ母親がかならず自分をすくってくれると自覚できたのはなぜか。 つまりこの無言の愛情や存在がなければもしかしたら、おかあさん!とならないかもしれません。つまりこの無言の愛情、そしてすべてをうけいれてくれるという安心感こそがすなわち母親から「南無」であり、阿弥陀仏からの「南無」なのではないかと思うのであります。 この関係性、つまりは自分の力ではどうしょうもない身、凡夫であることをしっかり自覚しないで、勝手にこちらから呼びかけても意味はないわけであります。 ここまでお話ししてきますと、子どもはまだなにも知らないから母親に救いを求めるかもしれない、でも大人になれば迷子になったって自分で道を聞いて携帯電話でだれかに迎えにきてもらえばいい。と思うかもしれません。むしろ自分の力でなんでもできるようになればなるほど、心からだれかに救いを求めようという気持ちは薄くなるわけであります。宗教離れという言葉がありますが、その根底にはモノがあふれ稀薄な人間関係のなかで、いまの人には選択肢が多すぎるために、いやならやめればいいという状況が許されがちであるわけであります。生活が豊かになり多くのことが自分の力でなんとかなってしまうことが根本にあるのかもしれません。 話しを戻しますと、子どもというのは自分の力ではどうしょうもないことをしっているわけであります。だから素直に救いを求めることができる。しかし人は経験を積めば積むほど自分で生きている。自分でなんとかしよう。そして実際なんとかしてきたと思いこみがちになってしまいます。 そのような気持ちでは決して南無阿弥陀仏ととなえてみてもそこには関係性のないただの呪文のようなものでしかなくなってしまうわけであります。 曽我量深先生は 仏様から一歩下がって自分を知らしていただく、これが南無阿弥陀仏なのである。一歩下ることをわからなければ人間がわからない。一歩下るところに、そこに私どもは助かるまじき人間であるということをはっきりしらしていただくことができる。 と述べられています。 佛から一歩下ること、それが自分を知ることにつながると述べられているわけであります。、これは人間には限界がある。人間の弱さを知る。それをしっかりと心から自覚してはじめて救ってもらわなければならない身であることを認識し、そして「阿弥陀」という存在を知ることができるということになるのではないでしょうか。 一念多念文意という書物の中に人は臨終のさいになってもまだなにかいいことが起きないだろうかと願ってしまうものだ。と述べられている一文がありますが、それほどまでに人の煩悩や欲望というものは深く、曽我量深先生のおっしゃられたたすかるまじき人間という一文とつながってくるのではないかと思います。 まずは念仏を唱える上で自己を自覚するということが必要不可欠であってそれがあってはじめて念仏をとなえる身となれるのではないでしょうか。 こう考えますと浄土真宗においてお念仏というのは追善供養の為のものではなく、自らの灯火となる大切なものであることがご了解いただけるかと思います。それについてもまた深く掘り下げてお話ししなければいけないのですが今回はもう時間もありませんのでまた機会のあるときにさらに詳しい話しをさせて頂けたらと思います。 それでは最後までご静聴頂きましてありがとうございました。
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