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Title: 悪人正機
2008.05.29 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」 悪人正機の中にある悪人は何を指すのかという問題にぶつかって。 たくさんの人といままでたくさんの話をしてきたけどいまいち腑に落ちてこれか。という実感がわかないままだった。 でもこないだあるときふと思った。 ある映画の話。内容を説明すると。 海外であるNGO団体の少年が武装組織に拉致された。武装組織は少年の命と引き換えに日本政府に莫大な身代金を要求した。 しかし日本政府は、武装組織には屈しないという国際世論を背景にそのNGO団体にはだいぶ前から国外退去の避難勧告をだしているのに、それを無視してその場に滞在した彼自身にも責任があるということを盾に身代金の要求をしぶった。それを受け国内世論も彼らに責任がある。一人の為にこんなに国を振り回してといういうバッシングをはじめる。 まるで少し前にあった邦人拉致事件をそのまま再現したかのようなシナリオだ。 事実あのとき自分自身、あそこがあぶないのわかってるのになにしてんだ。自業自得だよと思った。 そして映画の中では、その家族がどれだけの迫害を受け、父親は職を終われ。最後は名前をかえるまで追い詰められる家族の苦悩が描かれる。 そして数年後。 当時外務省で機密扱いされていた文書が明るみに出る。 その文書には。 その拉致されていた彼のいた村に退去命令がでたのはその拉致の後であったこと。つまり彼は退去命令を知らなかった。それを政府は黙殺し世論をたくみにあやつり政府の失態を個人におしつけるという構図をつくりだした。 そしてその機密文書とともにその国で彼がどれだけの功績を残してきたか、現地の子どもたちからのメッセージやなど彼の人間性を示すような証拠はぜんぶにぎりつぶされていたこともわかる。 つまりは、国外退去の連絡を現地の大使館はしっかりとしなかったこと。彼が最後まで現地の子どもたちの為に奮闘してすばらしい活躍をしていたという事実が世論に流れれば政府は多額の身代金を払わなければならない上に、国際社会からもバッシングをうけることになる。だからこの事件を彼が無謀にも国外退去がでているにもかかわらず興味本位で入国したと少年というシナリオをつくることによって問題を片付け、それに日本中が踊らされその情報を鵜呑みにしたたくさんの日本人が彼を、そして家族をバッシングした。 そういう内容のものだった。 さらに映画の話からそれるが。 最近おおくの信金銀行でエコ預金というサービスをスタートした。 その地域のリサイクル率や河川の汚染、空気の汚染が前の年よりも減らすことができれば預金利率をあげるというもの。 そのサービスは大好評でたくさんの預金があつまった。むろん預金者は自分もエコに協力している気持ちになるし、もしかしたらその地域では空気もきれいになり水もきれいになるかもしれない。それに利率も上がるし一石二鳥悪いことがひとつもないかに見えるけど。 そのたくさんあつめられたお金。 銀行はもちろん運用するためにいつもよりも多額の投資をファンドや海外に投資する。 その多額の投資で自分には目に見えない世界のどこかでたくさんの木が切り倒され、たくさんの汚染を生み出していないといいきれるんだろうか。途上国ではお金になるからと土地をぜんぶバイオエタノールの畑に変えているという。その弊害が生みだすものの計り知れないこと。 ダーウィンの悪夢という映画があるけど日本へのナイルパーチの輸出量は年間2500トンを超える。 エコ預金して、そのお金で木が切られていることを知らずに。フィレオフィッシュをたべてその魚がとれる国ではなにがおきてもおかまいなしなのが現実で。情報や報道を鵜呑みにして油まみれの水鳥に同情する。 そういう生活をしながらフリーチベットと叫ぶ矛盾。 正直なにもしないよりもましだということはよくわかるし、じゃあどうすればいいんだ。といわれてもどうしていいかわからない。えらそうなことをいってもなにもできない自分。 人間は。善人とか悪人とか。正しいこととはなにかとか。そんな価値観をいくら掲げていきていても、ぜんぶはかなくも形のないものに過ぎない。 そして人は図らずもどこで悪人になるか善人になるかなんてことはわからないしむしろ自分が胸を張って最後まで正しいと胸をはれることなんてなにもなくて。正義なんてことばは幻想にすぎないと思う。 ここ数日モヤモヤしてたものがすこし晴れてきて見えてきたことは。悪人正機のさす悪人がまさしく自分自身だということ。 善人なんていないということ。 いま自分にできることは目の前のこと。 善人なほもて往生をとぐいはんや悪人をや。
Title: ラーメン屋で平和を願う人をみて。
2008.05.20
昨日は帰りが遅くなったのでひとりラーメン屋にはいると向かい側にカップルらしき2人が座っていた。みるからにサラリーマンとは違う風貌の彼はチベット問題のことを話している。中国の地震の話も。主にチベットの抱える問題と中国の批判。 きっとおもうに彼は彼なりにチベットの平和を願っているんだと思う。 チベットだけじゃない。スーダンやアフガンの平和を願う人もたくさんいるんだと思うけど。 祈るだけで平和になるなら世界はもう平和になっているはずだ。 そんな彼の話に耳を傾けているとそのテーブルに、店員がラーメンを運んできたんだけどどうも注文と違うものがきたようで、店員は小さく頭を下げると無言でラーメンを持って帰った。たしかにその店員も態度はあまりよくなかったとはいえ。でも思うにその店員は日本人じゃない。もしかしたら中国人だったのかもしれない。 そしたらその態度にその彼は、まじいみわかんないんだけどといって、不服そうな顔をしてあからさまに不快感をあらわにした。横にいた彼女も一緒に。 その光景を客観的に、はたからみていておもった。 ちいさなことかもしれないけど。その時その人にわいた苛立ちや怒りやそんな小さな火種が世界を平和にしないんだと思う。 よく客なんだからとか。お金払ってるんだからとか。仕事だしわりきらなきゃとか言う人がいるけど。 人と人という関係の間にそういう価値観をはさんでしまう物の見方が少なからず平和の問題の根っこにあるんじゃないかと思う。 ここ数年自分が心から感じるのは。客でも顧客でも仕事のライバルでも自分とは毛並みの違う人もなんでも。ちゃんと人と向き合わない人の周りに人なんか集まらないし周りに人の集まらない人になにかを変えるなんてことはできなんだと思うし、なにも変えられない人がいくら平和を訴えても、もっともらしいことを言っても。祈ってるだけとなにも変わらないんじゃないかと思う。 ほんと他人事じゃない。自分自身反省しなきゃと思った。 まずは自分の心だといえば、そんなの理想論だし、そんなことしてたらどれだけ長い時間がかかるかわからないし社会はなりたたないし、そんなの時間の無駄だといわれるかもしれないけど。 でも。平和なんてのはそんな焼け石に水をかけてほんとうに冷やすくらい途方もない作業なんじゃないかと思う。 ああほんと他人事じゃないなぁ・・・ 自分だってその彼と同じで店員やサポートセンターの対応に苛立つことも多々あるし。いくらどこかの平和を願っても、だれかをないがしろにしたり、いらだったり腹を立てたり、ねたんだりうらやんだりそういう心だらけだし。 風が吹けば桶屋がもうかるというけど、それはおおいにありえるとおもうし、笑顔のためになにかできることを本気で考えてみたら。変えるべきはまずそこなんじゃないかと思った。 そうおもってみれば。こないだの成田でのダライラマの会見はすごいなぁ。あの人はずっと笑顔だった。 なむなむ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 緑化の恩恵。
2008.05.15 小春日和から一転、春先とは思えない寒さが数日続きましたが。。。でもなんか寒い日からあたたかくなるこのわくわく感を今年は2回味わえたかと思えば、なんか得したような気にもなる。 ところで。 うちの寺にはハンカチの木という木があります。詳しくはしらないけどけっこう珍しい木だそうで、白いハンカチのような咲かせることで有名らしい。 でも植樹してもう8年くらいになるんだけど、一度も花をつけたことがない。ちょうどこの時期が花を咲かせる時期なので毎年たくさんの人が楽しみにしてるのに、毎年うんともすんともいわない。 そこで原因を調べようと植物に詳しい専門家をよんで調べてもらったら。 栄養も申し分なし。日当たりも問題なし。一切なんの問題もないです。 はじめは意味がわからなかったんだけど。よく聞いたら。 大事にされすぎて花をつけて実をつけようという生きていくための貪欲さみたいなものが失われているのかもしれないということだそうです。少し枝を落として、肥料もあんまりあげないほうがいいかもしれない。とのこと。 時期を同じくして。幼稚園にある一本の木の葉が完全に虫に食われてぼろぼろになった。 そのときに、消毒してくれる業者の人から聞いたのですが。 普通植物というのは、一枚の葉が虫に食われるともうこれ以上食われまいと自己防衛をして植物自身が苦いエキスをだして他の葉を守ろうとするそうです。なので全部の葉がぼろぼろになるということはあんまりないらしい。 でも幼稚園の木は大事にされすぎてそういう自己防衛が働かなくなっために全部の葉がぼろぼろになってしまったんじゃないかということだった。 なんとなくタイムリーにそんな話をきいて。 うちの前の大通りを歩いていたら。 うちの前の大通りの両脇には銀杏並木になっていてたくさんの銀杏の木がはえているんだけど、この時期は葉があまりにうっそうとするので、信号にかぶってしなったりするので、ほとんどの枝がばっさりと切られ、丸裸にされてしまう。 いつもかわいそうだなぁと思ってたんだけど。 なにげなく木を眺めたいたら。その丸裸に切られた枝から青々とした新芽が伸びてきて、日に日に大きくなっていた。それが日に日に。ほんとに毎日どんどん大きくなっていくのが目に見えて、ものすごく生き生きして見えた。 こんな空気の悪いところで枝を全部落とされてるのに。 しかし植物ってすごいなぁ。 最近緑化計画と題して緑化に力をいれてるのでやたらそういう話に敏感になります。 人間も植物も同じなのかもしれない。ほんとに最近は花を咲かせるのを忘れたような悲しい事件が多い。 なにがよくてなにが悪いなんていう価値観は絶対じゃない。 自分の思う大切も。かわいそうも。それがほんとうに正しい姿なのかはわかんないもんです。 満たされることが幸せなのか。欠如してることが不幸なのか。 世の中にはそうじゃないことがたくさんあふれてる。 それって大事な問題のような気がした。
Title: 刀は文化なのか武器なのか。
2008.05.05
内容や監督に対してはともかく自分の感じたことは。 刀は文化なのか武器なのか。 そこで議論をしようと思う心が靖国を固有名詞からそれ以上のものにしてしまったんだと思う。 刀は刀でしかない。 生も。死も。 それ以上でもそれ以下でもない一点の事実でしかない。 それなのに人は事実に事実以上の意味を見出そうとする。そうすることで安心を得たり平穏を願ったりする。 人は自分のフィルタを通して自分の目に写るすべてのものにレッテルをはる。あれがいい。これはわるい。これは間違っていてこれは正義だ。 価値観に絶対はない。 靖国とはそういう人間の心と、靖国というものの存在が奇跡的、偶然といってもいいくらいの同調率で成り立っているんだろうと思う。 主義主張の全く違う人間なのに、一つの象徴にあそこまで心を奪われとらわれるということはほんとうに絶妙なバランスで、きっとどこかでなにかが違ってても成り立たなかったくらいのバランスで成り立っているからなんだろうな。 なにかが1つのものを支えるのではなくて。なにもないのにそれが支えられているという事実。目にみえないものを具現化するということの生み出す不思議な感覚。 これが靖国にある答えのない問題なんじゃないかと思う。もしそうならばはじめから答えなんてないんだこの問題に。 答えのないものというのは確実にある。それなのにその答えを探そうとしてしまう人間の心が生み出したものが靖国なんじゃないだろうか。 議論をしようという心のわいた時点で自分も靖国にとらわれている一人なんだ。 真宗と靖国は相反するところにあるということにはじめて気づかされて戸惑う自分がいる。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 無礙の一道
2008.05.05 真宗のいう救いと仏陀のいう覚りとは違うものなのだろうか。 親鸞は覚りをどう受け止めていたのか。 仏教はものにもの以上の意味を見出すところに苦しみを生み出すという解釈をしてもいいのだろうか。人間のものさしでなく仏のものさしでものを見るということは生も死もそれ以上でもそれ以下でもないわけで。 目の前に2人のひとがおぼれていたときに。それが母と嫁であろうと。友人と他人であろうと。近いほうに手を差し伸べられるのが正解なら。 そこにかかる想いや心はどこにいくんだろうか。 そしてその正解が覚りにつながるならば。 覚りの境地とは苦しみもないかわりに彩りもないのじゃないかと感じてしまう。でもそれはまだ自分のなかの執着がすてきれていないからなんだろうか。でも執着をすてるのが無理だというのが真宗であるならばなにが真宗のいう救済と覚りはやはり違うものだということなんだろうか。 苦しみがるから喜びがあるんじゃないだろうか。という迷いはまちがってるんだろうか。 仏陀も晩年モッガラーナとサーリプッタを失ったときに嘆き苦しんだんじゃないんだろうか。覚りは苦しみを生み出さない境地ではなくて苦しみに対処する方法だということなんだろうか。 きっとこうやって頭で考えて堂々巡りをしててもどうしょうもないのはわかってるのに。 きっと親鸞がいたらそれこそ南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。 というんだろうな。 ああだめだな。 念仏者は無礙の一道なり。 ほとほととおい。
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