Title: 本願ぼこり
2008.06.27


日蓮が念仏をしてると無間地獄に堕ちるといったのを取り上げてよく真宗の人間と日蓮宗の人間は相反するというけど。日蓮の時代にたしかに真宗の中に念仏を間違った解釈をしていた人がたくさんいたことは事実で、「本願ぼこり」という言葉もあるが、まさに歎異抄が書かれたのもこの時代なわけだし、その言葉尻だけをとらえていがみ合っているうちは本当の姿はみえてないんだと思う。

なぜこの人はそういうことを言ったのか。行ったのか。

これは時代に関係なく。

秋葉原の事件の犯人だってそうだけど。

かならず。そこにはかならず理由がある。

おれはその理由はつきつめていけばきっと最後の最後には自分の中でもきっと理解できるものなんじゃないかと信じてる。

他人事なんて事実は一つもない。

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Title: お寺ってのは。
2008.06.09

最近感じること。

最後に人が還るところは。手を差し伸べてくれたり甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるところでも、信念をもって突き進む力強いところでも、誰かや何かのために心血を注ぐところでもないんじゃないかと思う。

なにもしてくれないところ。なにもしないけど突き放すわけじゃなく。いつまでもそこにいさせてくれるところ。ただそれだけなんじゃないかと思う。

最後の最後に安心できたり癒されたりするのは。

なにかをしてくれるよりも、なにもしないで横にいてくれるだけいいんだと思う。まるごとそれでいいよって言ってくれる所なんだと思う。

南無阿弥陀仏をとなえればなんか救われたり、楽になったり、ときには成仏できるとか思ってる人がいる。そんな便利な呪文みたいに感じてる人がいるかもしれないけど。誤解をおそれずにいうなら、阿弥陀さんはなんにもしてくれない。いくら念仏を唱えたところで目の前に現れてなにか苦しみを取り除いてくれる方法なんて教えてくれない。そもそもそんな非現実的なものじゃない。

ただ阿弥陀さんはそこにいるだけ。それが存在するかしないかの問題じゃなく。いつでもぶれずにいたいときにいたいだけ、いさせてくれる場所みたいなもんなんだと思う。

そんなの意味ないじゃんともうかもしれないけど。

南無阿弥陀佛っていうのは。

言い換えれば。

現実よど~んとこいと。だめなら泣きましょう。よければ笑いましょう。必要なときはここにいるよ。なんにもできないけど一緒にいますよ。いたいだけここにいたらいいよ。それだけしかできないけどね。

ってことなんじゃないかと思う。

さらにいえば。

お寺って場所はそういうところなんだろうな。中道っていうのはどこにもよらないところ。真宗でいえば俗でも僧でもないところ。

どこにも片足つっこまずにのらりくらりとある場所。世間とは時間の流れがすこしずれてるところ。

正直いままではなんとなくそれが嫌で。なんかそんな時間の流れや自分のおかれた環境がぬるくて、なんか宙ぶらりんのような気がしてたし、そうじゃないほうへばかり進んでたような気がするけど。

最近思うのは、お寺というのは、甲斐甲斐しくなにかしたり、誰かや何かや社会のためでもなく、ただ価値観を振り回さずにそこにいつづけるだけでよくて、さらにいえばそうやっていつづけなきゃいけないんだろうな。そんでそこに足を運ぶ人に変わらずにいられたらそれだけでいいのかもしれない。

きっと今の時代に生きている人は、いろんな価値観に振り回されてて、こういう生き方は理想。こういう活動はすばらしい。根暗はだめだ。ひきこもっちゃだめだ。納豆は体にいいぜ。ポテトは体に良くないぜ!耳をふさぎたくてもたくさんの情報にさらされて。さらされ続けて麻痺してるのかもしれないけど、絶対こころのどっかが疲れてる人がたくさんいると思う。

こうかくと誤解されそうだけどお寺は胸をはってなにもしないことをしなくちゃいけないのかもしれない。

最後に還るところ。最後に人が安心するのは。

きっとなにかを変えられる力ではなくて、なににも変えられない力なのかもしれない。

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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。