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Title: 寺っこ
2008.02.12 つい先日。お寺の子3人でご飯をたべた。知ってる人は知ってるでしょうが。いつもの3人です。 大抵普段はあの女の子とは最近どうなんだとか。たまにはみんなでマージャンでもしようぜ!とか主にどうでもいい話ばっかりなのに、その日は珍しく真宗の話になった。それこそ信心の話、本願の話、回向の話、さらには信心を得るとはどううことかとか。死んだら極楽にいくのかとか。そもそも極楽はどこにあるとか。それに教団とはなにか。聞法とはどういうことかとか。 ものすごく専門的できっと周りにいる人はあいつらやばいな。と感じただろうけど。ひさびさにそういう話ができてよかった。 そんな中で印象に残った話。 その中の一人で地方のお寺の24代目がこういった。 「正直おれの代でお寺なくなってしまってもそれはそれでいいのかもしれないと思うんだよね」 思うにたぶんたくさんいろんな思いもあるし本当にそう思っていないとしても。仮にでもそういう言葉が口からでてくるのは同じ寺の子としては残念だし悲しくもある。 真宗の根本的な部分には「生きている」ではなくて「生かされている」という気持ちが大切だと思うし、そういうベースあっての真宗だと思うし、自分たちはお寺で育っていくなかでやはりたくさんの人に関わって生きてきたし支えられてもきたし、いまの自分をつくる要素にその一つ一つは確実に欠かせないから。いうなればいまの自分がいるのはそういうすべての要素があるということを忘れちゃだめなんだと思うし。しっかりと自覚しないとだめなんだと思う。 寺で育つと忘れがちなことがある。 お寺で育つとお寺が自分の家になるけど、でも自分の家でもそこは自分の家ではないし、お寺を私有化してしまうとそういう思いになってしまうんだと思う。寺は住職のものではないし、いくら世襲制でもその家族のものでもないと思う。究極いえば、もし事故で自分の父親と俺が死んでしまってもつぶれてしまったらだめだし、何食わぬ顔でそこにありつづけなければならないんだと思う。 それが本当の意味での僧伽だと思うし、何十年何百年たくさんの人が命をかけて生涯をかけて守ってきたものを自分が終わらせるとか自分の代でおわりとかなんておこがましいにもほどがある。自分がどこまでできるかはわからないけどそれをしっかり自覚するということが「継ぐ」ということじゃないのかと思う。 蓮如上人が生涯をかけて命をかけて守ろうとした法灯、蓮如さんだけじゃなく。すくなくとも今の自分のつながる直接的でも間接的でもたくさんのじいちゃんたち、それに親。その中で生かされてきたことを勘違いして勝手に俺の代で消えてもいいや。なんていうのは真宗に育てられたものとして言ってはいけない言葉なんだと思う。 そういう意味じゃ「継ぐ」というのはいま自分が思っている以上に重いということだと思うし、継ぐ以上は自分の気持ちとか、自分の幸せとかそれだけじゃなくて、そういうものも感じ取っていかなければならないんだと思う。 私有化ということで派生していえば。 お寺という部分でいま私有化ということをいったけど。これは「命」もおんなじで。 自分は一人で生きている。命は自分のものだ。という勘違いをするから、自分の命をここで終わらせてもいいんだという錯覚を起こすんだと思う。 今の自分がいるのは。 親がいて、さらにいえば。その親にも親がいて。その親にも親がいて。 何十年何百年もその流れが切れずにいるから自分がいるわけで。もう写真も逸話も残ってないくらいのたくさんのご先祖さんが必死に生きて、子どもをつくり。その子どもがまた生きて子どもを作る。子どもをつくるというのは命を生み出すだけではなくてそこにはたくさんの願いや想いもこめられているわけだし。 そういうたくさんの命や想いや願いはいま生きてるここの自分の中にたっくさん流れ込んできてるんだと思う。 命は自分の持ち物ではない。 同時にいつかいま自分の中にある命も自分も家族や誰かにとってしっかりと受け継がれていくんだと思う。 浄土真宗の法事というのは亡くなった人の命日という日を通してそれに気づかせていただく機会をいただくと同時に、いつか自分も必ず命日という日ができるんだぞ。ということを思い出させていただく機会をいただくというのが本当の意味で、そういう意味では法事やお墓参りというのは亡くなった人の供養のためではなくて生きている自分たちがそういう想いに帰ってくるための法縁ということになる。 これまたややこしけど。 「命が自分を生きている」という言葉がある。大学のときは意味わかんなかったけど最近少しだけどその意味がわかったような気がする。 最後にもうひとつだけ。 もう一人いたお寺の子がぽつりとこういった。 最近思うんだよね。 「なんか本名〇〇としてというよりもなんかそれをこえて釈〇〇としてなにができるんだろうと思うんだよね」 お寺の子は本名のほかに法名というのをもっている。得度をしたときにもらう名前で、一言で言えば僧侶としての名前。 そんなことをあまり意識して生きてこなかったけど。自分も最近そのことをものすごく考えていたからなんかそれをいわれてものすごく自分の中にあったものに確信を持てた気がした。 本当にいい機会だった。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 頭じゃなくて体でわかるということ
2008.02.08 遠慮なく真宗の話なりこういうことを書くことができるこういう場のおかげで、最近毎日いままでいろんな自分の中にあったものを少しづつ掘り下げていけるしその中で本当に日々新しい発見ができるし、いままで自分の中にあったものの価値が一変するくらいの気持ちがする。よく聞く宗教的感動、宗教的な感応というのはきっとこれに近いものなんだろうと思う。 そんなときに感じたこと。 こうやって毎日宗教的なこと、というよりも今は真宗的なことをばかりを考えて本を読んでいると「ああこうやって毎日こういうことだけを考えていけたらどんなにおだやかで。なによりも自分にとってこんなに有意義な時間はないな」という喜びと同時に「もっと深く深くもぐっていったらどこに行き着くんだろうという」探究心も沸いてくるわけですよ。 でもきっといろんなことに追われていたり、それこそおれが証券会社のサラリーマンならそういうことばかり考えていたらあっというまに社会不適合のレッテル貼られちゃうし、社会ではやってけないと思うし、そういう意味じゃいま自分に与えられた環境というのはものすごくありがたい。 なにごともそうだけど。自分と向き合うというのはいい意味でののりしろや余裕というものが必要なんだと思った。 それでも人間と関わって社会で生きていく以上、いつもふわふわと雲の上にいるような感覚じゃいきていけないし、でもそういうことばかりを考えて、さらに深いところ深いところへはいっていきたいというジレンマみたいなものが自分の中でふとわきあがってくる。 つまりはその自己への探求という気持ちが極限まで高まればそれは自然に「出家」という道になるんだと思う。 「出家」とはそういう意味じゃ頭を丸めてお坊さんになりますよ宣言をするということではなくて、そういうおさえきれない気持ちがわいてきて自然に訪れる入り口みたいなもんなんだと思う。 仏陀は29歳で出家して35歳で悟りを開いた。 その29歳という入り口はきっといま自分が悩んでいる部分を振り切ってさらに深いところへはいっていこうという探究心がとめられなくなった結果なんだと思う。そしてなによりも動機は人間の避けられない問題にしっかりと直面したということになるわけで。 家や家族やいまあるものを全部捨てても至りたい境地があるということを知ったということなんだと思う。 そして仏陀は存分に思惟することでついにその境地に至ったわけだ。 でもここで思った。 いまここで自分自身が、家や家族や、仕事をぜんぶ捨ててそういう道にすすんでいこうと。毎日考えることだけをしようと。 いまそれができたらものすごく幸せだと思う。 でもそんなことはできない。現実的に。できるわけがない。 じゃおれはいまの環境にいるかぎり絶対に悟りなんてひらけないし、ある程度のところまでしかいけないじゃないか。という順番に思考はすすんでいくわけだ。 ましてやおれはまだこうやって考える時間をもてるだけ幸せだけどたくさんのものを抱えていてそういう時間すら持てない現代人はそういうところに向かうことすら物理的に無理じゃないかと。 そういう理論になってくるわけだ。 ここまできて。 真宗に携わる人ならば一度は耳にしたことはるとおもうけど。 阿弥陀仏はあなた方の行ずべきことはすべて私が行じました。 (ここにかかる信心の問題は別にして) ようはその呼びかけこそが「南無阿弥陀仏」であるという。 一言で言えばそういうことで。ほんとに一言で言えばね。 つまりはそれがまさに念仏の一道という境地であって念仏者としての生き方であるわけだ。 もちろん自分自身その言葉は聞いたことあったし、阿弥陀仏はあなた方の行ずべきことはすべて私が行じました。だから安心して私の名前を呼びなさいなんて、なんて便利なもんなんだろうなと。 むしろそれにそんなんで救われるんかい。むしろ行ずべきことっていうのはなんなんだ。 とそんな程度にしか感じていなかったのに。 今回自分の中にある気持ち、今時分の抱えている問題に行き着いたときにはじめて。 この「阿弥陀仏はあなた方の行ずべきことはすべて私が行じました」 とう境地の中に、いまの自分の抱えている問題、たとえばそういう境地で生きていきたい。もっと自己を探求したいと思っていても出家の道に至れなかったり、家族や自分の抱えているものをすてきれなかったり。でもその探究心がもうどうしょもない部分まできていてその狭間で悶々としめつけられるようなジレンマのような感覚までも含まれているんだと。 おれがここで踏み出せないことももう百も承知で、それでも大丈夫だから念仏を唱えなさいといっているんだとしたら。 南無阿弥陀仏というものはなんて懐がふかくて、なんてやさしくて暖かいんだろうと思う。 ほんとにおれに気づかされたら念仏というものの深さ。暖かさ。いままで感じていた気持ちが一変するくらいの気づきだったと思う。 まったく真宗や宗教ベースのない人がこれを読んでも、なんのこっちゃ。あぶないな。と感じるかもいれないけど、これが同じ文字を読んでも、同じ言葉をきいてもまったく違う感覚になるということなんだと本当に心から実感する。 その頭じゃなくて体でわかるということが宗教に携わる上で一番重要なんだと思う。なにごとも真実は受け手しだいでいくらでも深くなる。 真実を探すのではなく今目の前にある真実を見抜く目をもつということが求道なんだと思う。
Title: 問い
2008.02.07 「疑問」というのと「問い」というものは違うものなんじゃないかと最近勝手に定義つけている。きっと辞書なんかで調べればきっと同じくくりなんだろうけど。 自分の中で「疑問」というものは答えを見つけることで解決するけど、「問い」というのは答えを見つけることが目的ではなくて次の「問い」を見つけることで解決していくんだと思う。 さらに言えば宗教を「考える」ということは。 大切なのは答えを出すことではなくて。そこから数珠繋ぎに次の問いをみつけていくことなんだと思う。 たとえば。 信心について考える。 たくさんの問いにぶつかる。 念仏のことを考える。 またたくさんの問いにぶつかる。 でも信心のことを考えていたときの問いと念仏のことを考えていた問いが、結果ひとつの問いにぶつかる。結局それだよね。というところにぶつかる。 そして思うにそれを無理やりに納得させたり、答えをみつけたと思い込んで解決することよりも、それを宙ぶらりんで抱えておくと、ひょんなことからそれがつながったり、突然ぱぁと、ああそういうことか。ってことはあれも同じなのかもしれない。でもあの場合はどうなるんだ。 と少し前にでながらもまた問いを生み出す。 その繰り返し。 ほんとうに仏教は深い。 そして真宗はやさしくあたたかい。 そういうことを繰り返していると時にふと同じ文章、同じ経典、同じ言葉なのに。いままでなんにも感じなかったところが突然染みるようになることがある。 問いと問いがつながって。そこで迷いながらも次の問いを生み出す中で確実に心になにかがはいってきてるからだと思う。 問いというものの大切に気づかされたら。 歎異抄の9章がものすごく染みた。のと同時に親鸞という人の行き着いているところの深さがいままでよりももっとはっきりわかったような気がする。 「問う」というものは大切なことです。 問わなければ大切なことが横を素通りしてても気づけないんだと思う。 しかし最近このブログという場ができて。水を得た魚のように思う存分回りを気にせずに考えることにのめりこめる。むしろ頭の回転や思考や文字に思いがついていかないくらいいままで頭の中に宙ぶらりんになっていたものがはやく形にしてくれといってるのに若干空回り気味なくらい。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: むじょうけん。
2008.02.05 重要なのは最後はどれだけすきになってもらえるかよりも。 どれだけすきになれるかなんだと思う。 すきになるということは。 ほんとうに奥が深く。 厳しく深い。 最近はすきだということを勘違いしてる人がおおいけど。 すきは。 無条件ですよ。 認めることで。 すきは。 受け入れることですよ。 そんで究極。 すきは言い換えれば 信じるということですよ。 こうかくとなんのこっちゃ。だれか好きな人でもできましたかといわれそうだし、言葉にすると簡単に聞こえるかもしれないけど。 もっと深い部分の話で、本当に無条件になにかを好きになったり、無条件になにかを認めるとか。無条件になにかを信じるという心がわいてくるために必要なものは、 絶対的に優れているなにかや誰かではなくて、絶対的に弱い自分なんじゃないかと思うわけですよ。さらにいえば自分の弱いという部分をしっかりと見つめて取り繕わないで目を背けないという勇気だと思うわけですよ。 だれかを好きになろう。だれかを信じようとおもって。そういう人が現れないかなぁなんてさがしててもそれだけじゃきっとみつからないと思うんですよ。そういう人に限って強がりだったりプライドが高かったり、少なくとも自分は一人でもなんとかなるということが頭のどっかにあるじゃないかと。 ましてや人間だれかの優れているはけっこう目についても、自分の劣っている所はなかなかはっきりとした形で目につかないもんで、ましてや目に付いてもそれを受け入れようとしないでなんとかあの手この手で取り繕うとするでしょ。 でもそこでそれをしっかりと受け入れて。見つめることができて受け入れてはじめてなにかに無条件になれるんじゃないかと思う。 これを突き詰めていくと あえて神様という言い方をしますが、 神様が存在するから信じようというのではなく。信じてみようとおもうから神様が存在するんじゃないかと。同じようでぜんぜん違うと思うし、その逆説って宗教にとって大切なんじゃないかと思うんですよ。 それが思うに「地獄も一定住みぞかし」の入り口なのかもしれないなぁ。と、さらにいえばそれがしっかりみとめられたときに「念仏もうしたるこころのおこるとき」につながってくるんじゃないかなぁと。 さらにいえば。 それに気づいてはじめて宗教はだれの為にあるのかということがはっきり浮き彫りにできるんじゃないかと思います。 ものすごく真宗に依った見方だし。いまいち自分のなかでまとめきれてないけどものすごく感覚的にだけど最近感じたことです。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 初心表明
2008.02.01 いままでもうかれこれ10年くらい思ったこと感じたことを書き溜めてきて、(メインサイトからこのブログの趣旨にあっていそうな記事はこっちに移行しました。ほんの一部ですが) 時々改めて自分の書いたものを読み直したときに、改めて自分の中に発見ができたり、そしてなによりもモヤモヤをモヤモヤで片付けないで徹底的に文字に変換することで自分の中にあった形がなくてドロドロしたものも、ふわふわしたものがおぼろげでも姿がみえるようになったり、自分の中でそのひとつひとつの出来事にしっかり向き合えることができるようになったと思う。心の中を処理をしていくことがすごくうまくなったし自分の中にある主義も傾向と対策もだいぶ形になってきたんだと思う。 そうかと思えば同じことをなんども繰り返して、おんなじところでなんども苦しんでる自分を発見したりもする。 でもこんなに飽きっぽい自分がこんなに飽きもせずに、そもそもなんの為に書いてるんだろうという根本的な理由を思った時に、いままで明確な答えがだせずにいたし、友達にもなんで書いてるのかと問われてもうまい答えは思い浮かばないままだった。 でも最近少しづつ自分の中で書くということの意味や、自分の中でどういう気持ちからそれが生まれてくるのかわかった気がする。 そもそもは前に、自分にとって書くことはある種の自慰行為であると書いたけど。それはきっとそうだし、これからも変わらないんだと思う。書くことでバラバラになりそうなものを強引につなぎとめたり。時に自分を鼓舞したり。さらには慰めもする。それにもうひとつ。自分は「わからない」ということがすごくいやだから自分の中にあるもの。感じたことをもっとしっかりみつめたいし、そのまま流すことができないしそれと同時にその答えを忘れないように書きとめておきたいというのがきっとはじまりだったんだと思う。 そんなことをおぼろげながらも感じていたときにふと「聞法」という言葉が浮かんだ。 聞法とは法に聞くこと。 こうかくと。 またはじまった。仏教とか宗教はすぐに難しい言葉で煙に巻いたような理論をならべたてる。なんて思う人もいるかもしれないし、なんか一種のアレルギーみたいに宗教かよ・・・うわぁ・・・ と感じる人もいるかもしれない。 たしかに最近じゃ宗教なんてうさんくさいという構図ができてもなんらおかしくないし、むしろそれくらいの警戒心をもたないといけないのかなとすら思うし、自分自身そう思う。 寺にうまれてもそう思うし。いまだになんとなく自分の扱っているものが宗教なんだというのはぴんと来ない。 これは自分が感じることだけど、おもうに宗教っていうのは根本はほんとにシンプルなものなんだと思う。 シンプルなものをシンプルに伝えるということはものすごい危険性をはらんでいる。だから宗教はシンプルなものを伝えるためにあの手この手を考えてきたんだと思う。それがひとつの方便であり、天国であり地獄であるんだと思う。 宗教の根本はものすごく単純で簡単なこと。 くそったれ。世の中馬鹿ばっかりだ。とか。ああ、なんであの子はおれに振り向かないんだとか。お金がほしいのになんでないんだとか。なんでおれだけこんな気持ちにならなきゃいけないんだとか。あんなやつがいなければいいのにとか。 そんな些細なことも含め、心の中が自分の力ではどうしょうもなく苦しいときに処方する薬みたいなもんなんだと思う。 大抵の問題はそんなもの処方されなくても解決できるし、ビールでも一杯飲んですかっとすれば忘れられるし、ストレス解消してればこなしていけるさ。 というレベルだけど。 それでもビールをのんでもストレス解消をしてもどうにも拭い去れない問題というものは確実にある。どんなに外にその解決法を探してもみつからない問題が確実にある。 もうどうにも目が背けられなくて、内側に自分の中に矢印をむけないといけない瞬間はだれにでも必ずくるんだとおもう。 そのときにはじめて考え始めるんではなくて。 むしろ生きているということはその問題にぶつかってない人はいないということに気づいて矢印を内側にむけていきていくことが大切で。 自分周りでおきるどうにもならない問題を自分のこととしてうけてめていくのが宗教とか仏教の入り口なんだと思う。 そしてそういう気持ちを先人はどう考えてきたのかなと。何十年、何百年、何千年たっても人間の悩みや苦しみはそうそうかわらないと思うし、今日にいたる間での長い年月の間にそういう問題を命を懸けて考え抜いてきた人たちがたくさんいるわけで。 それを教科書のように参考にして今の自分におきかえる。 これが聞法のこころであって。 さらにいえば宗教に触れるということなんだと思う。 だから自分でなにもしないで、ずばりいわれちゃっても。天国から死んだ人が語りかけてきても。たかいお札をはったってなんの解決にもならない。 それは傷にバンドエイドをはって隠すだけで安心するようなものとなんもかわらないんだと思う。 話がだいぶそれたけど。 なにがいいたいかというと。 ここで書くことは布教でもなければ教化でもない。 自分自身が感じたこと。おもったこと。苦しんだこと。それを法にてらしあわせて、自分自身の聞法の記録をつくりたかったということです。 そんで自分がいままで続けてきた書くという行為がなんとなくっこにつながってきた気がする。 ということがいいたかったのです。
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