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Title: 問い
「疑問」というのと「問い」というものは違うものなんじゃないかと最近勝手に定義つけている。きっと辞書なんかで調べればきっと同じくくりなんだろうけど。 自分の中で「疑問」というものは答えを見つけることで解決するけど、「問い」というのは答えを見つけることが目的ではなくて次の「問い」を見つけることで解決していくんだと思う。 さらに言えば宗教を「考える」ということは。 大切なのは答えを出すことではなくて。そこから数珠繋ぎに次の問いをみつけていくことなんだと思う。 たとえば。 信心について考える。 たくさんの問いにぶつかる。 念仏のことを考える。 またたくさんの問いにぶつかる。 でも信心のことを考えていたときの問いと念仏のことを考えていた問いが、結果ひとつの問いにぶつかる。結局それだよね。というところにぶつかる。 そして思うにそれを無理やりに納得させたり、答えをみつけたと思い込んで解決することよりも、それを宙ぶらりんで抱えておくと、ひょんなことからそれがつながったり、突然ぱぁと、ああそういうことか。ってことはあれも同じなのかもしれない。でもあの場合はどうなるんだ。 と少し前にでながらもまた問いを生み出す。 その繰り返し。 ほんとうに仏教は深い。 そして真宗はやさしくあたたかい。 そういうことを繰り返していると時にふと同じ文章、同じ経典、同じ言葉なのに。いままでなんにも感じなかったところが突然染みるようになることがある。 問いと問いがつながって。そこで迷いながらも次の問いを生み出す中で確実に心になにかがはいってきてるからだと思う。 問いというものの大切に気づかされたら。 歎異抄の9章がものすごく染みた。のと同時に親鸞という人の行き着いているところの深さがいままでよりももっとはっきりわかったような気がする。 「問う」というものは大切なことです。 問わなければ大切なことが横を素通りしてても気づけないんだと思う。 しかし最近このブログという場ができて。水を得た魚のように思う存分回りを気にせずに考えることにのめりこめる。むしろ頭の回転や思考や文字に思いがついていかないくらいいままで頭の中に宙ぶらりんになっていたものがはやく形にしてくれといってるのに若干空回り気味なくらい。 |
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