Title: お念仏と浄土
2010.01.22

五木寛之さんの「親鸞」という本の中に、

「そのこころは心ではなく情なのだ。浄土は情土なのだ、唯識で心はとけるが、情はときあかすことはできぬ」

という言葉がありました。

それを読んで感じたことですが、まず、浄土というところが、どういう世界なのかということは、阿弥陀経の中に、事細かに記されています。

抜粋ですが、例えば、

極楽国土には、七重の欄楯(欄干のような石垣)、七重の羅網(とりあみ)、七重の行樹(並木)があって、みな、これ四宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶)であまねく取り囲むとか。

極楽国土には、七宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶・赤真珠・碼碯・琥珀)の池がある。八功徳(澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・飢渇を除く・健康増進)の水が、その中に充満している。池の底には純ら黄金の砂が布かれているとか。

天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。

など一部抜粋ですが、具体的に極楽の様子が説かれているわけです。

いままで、自分の中では、極楽というところは、いいところなんだろうなぁ。だからお念仏を唱えることで、極楽にいくことができる。と考えていたことがあります。どうせ死んだあとにいくところがあるならいいところの方がいいなぁと。じゃあ、なまんだぶなまんだぶ。と。

でも思うに、それじゃお念仏は、極楽に行くための一種の方法にしかすぎないわけで、経典を読んで、頭で浄土を思い描いている限り、お念仏は方法論に陥りやすくて、それじゃ、本末転倒になってしまうのかもしれないと感じることがあります。

正直言えば、もしお念仏が方法論だとしたら、いまの現代において、お念仏したら極楽にいけますよ!といって極楽にいくことを心から望んでお念仏を唱えられる人はどれだけいるでしょうか、自分もそうですが、極楽なんて本当にあるんだろうか、そもそもお念仏したらそこにいける根拠なんてあるんだろうか、とか、阿弥陀仏とかってそもそもなんなんだ。と考えてしまうのが普通じゃないかと思います。

しかし真宗において大切な心は、その疑いの中にあるのかもしれないと思うわけです、その疑いというのは、頭のどこかでは、そういうものがあればいい。とか、すべてをすくってくれる存在がいてくれればありがたいけど・・・もしかしたらそうだったら・・・と気持ちも含まれているように感じるわけです。

法要や、通夜葬儀で、遺族の方とお話をする時に感じるのは、極楽の様子や、極楽がどこにあるかとか、そんなことや、もっといえば、自分が念仏をすればそこにいけるかどうか、ということはさておき、今、亡くなられた方が、極楽というところに行って仏様になっていると思えることに、安心することができるのかもしれないと思うわけです。

また、自分がどうしょうもなく苦しい時に、神頼みなんて言葉もありますが、そこに阿弥陀さんがいるからとか、もっといえば救ってくれる人がいるから、助けてくれ。というお願をするのではなく、そういう相手を通り越して、救ってくれるとか、救ってくれないとか、阿弥陀さんがいるとかいないとかに、関わらず、だれでもいいからなんとかしてほしいとか、思うことがあるわけです。

そう思った時に、冒頭の浄土は情土とはうまいことをいうなぁとおもったわけです。

大切な人がいいところへ行っていてほしい。とか、自分が苦しい時に、だれでもいいから何とかしてくれ!とか。そういう人間の根本的な心の中に、浄土というものの本当の姿があり、それを恋う気持ちをお念仏という形であらわすのかもしれないと思うわけです。

大事なのは浄土そのものなのではなくて、人が浄土を恋う気持ちによりそうことであって、救いを恋う気持ちによりそえなければ理屈ではない浄土というのはわからないのかもしれないと思うわけです。

また浄土を恋うときにそこにある。人間の本当の部分、なんで人間は極楽浄土を恋焦がれるのか、そしてそこには、浄土を恋わなければならない自分がいるという事実があるということに気づかされることが大切なのではないかと思います。

それを簡単に噛み砕いてみると、やはり真宗は山からおりた宗派なんだなぁとしみじみ感じるとともに、非僧非俗というのは、やはり簡単なようで難しいなと感じます。つい理屈や頭で、経典を理解してしようとしてしまいますが、それではわからないことがまだまだたくさんあるように感じます。

そして最後は目の前にいる人と、一緒に笑って一緒に泣きながら、その心にまっすぐによりそって生きていくことが大切なのではないかと感じるわけです。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 三願転入
2009.06.25


「三願転入について」

三願転入ということについて考える機会をいただいたので自分なりにまとめてみたいと思います。

まず三願転入というのは教行信証の化身土巻に書かれている部分です。

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。

この中には親鸞聖人自らの心の動き、変化が顕著に書かれているわけです。ただこれだけ読むととても難しいそうに感じますが。これを自分なりに解釈して紐といていこうと思います。いまの自分の中のご領解ということで読んでいただけたらと思います。

まず論主というのは世親のことを指し。宗師というのは善導のことを指します。

論主の解義と、宗師の勧化という部分の「解義」と「勧化」という問題に触れますとここだけで長くなってしまいますので今回はここには触れずに、解釈をしますと、ようは親鸞聖人は世親と善導に依って「久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る」となるわけです。

「双樹林下」とは、お釈迦様が入滅する時、近くに2本の木があったのがその名前の由来らしいですが、つまりはお釈迦様の入滅を指します。お釈迦様の入滅はいうなれば、悟ったものの穏やかな死といいますか、「やることはやったし、思い残したことはない」といって死んでいくという悟ったものの理想的な死の迎え方です。

しかし人間というのはそんな穏やかな死を迎えるということは難しいわけです。むしろいやだ!死にたくない!というのが自然です。

だから親鸞は言い換えれば、お釈迦様の悟り、お釈迦様のように死んでいくなんて無理でしょう。人間がそこにいたるなんてことは難しい。お釈迦様だからできたようなものの・・・ということではないかと勝手に解釈します。

ではどうしたらいいかということになるわけです。

ここからが私の解釈ですが、親鸞聖人の生き方に照らし合わせてこの三願転入を考えてみたいと思います。

まず先ほども書きましたが、お釈迦様が悟りを開かれたらしいぞと。そして穏やかに入滅をされたらしい!という話をきいて。多くの人がわれもわれもとそこを目指します。それ比叡山だ!比叡山で修行だ修行!というわけです。

親鸞聖人も長い間比叡山で修行をされました。

このあたりが三願転入の三願のうちの「19願 至心発願の願」を指すのではないでしょうか。経典でいえばここの教えの背景には観無量寿経があると思います。つまりは、「わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」という仏陀の教えにスポットを当てるわけです。

そして功徳を積んでそこを目指すわけです。

しかしここで問題が、功徳を積みたくても積めない自分にぶつかるわけです。さらには弱い自分が浮き彫りになるわけです。人間いきていれば食わなきゃいけないし、楽もしたいし、この現代では功徳だけを積んで生きていくなんてできない・・・

こりゃもうだめだ比叡山をおりよう。おれは弱い人間なんだ・・・ああだめだ・・・おれは駄目な奴だどこかに引きこもってしまおう。と心を悩ませて親鸞聖人も山を降りられたのではないかと思います。そしてほんとに六角堂にこもるわけです。

この六角堂では久世観音がでてくる話などあるのですが、そこはちょっと今回はおいておいて、そして一人悩んだ親鸞聖人・・・もうお坊さんやめようかな。とか思ったかもしれません。自分なんかが悟りを開くなんて・・・と。
そこで右往左往しているときにお念仏に出遭うわけです。いいかえればここで阿弥陀仏と出遭うわけです。

ここで19願と20願の変わり目かもしれません。自力で修行しても功徳を積んでは崩れ積んでは崩れ・・・そこで阿弥陀さんが言うわけです。

「わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」

言いかえれば、大丈夫ですよ。そういう弱い人間でも。とにかく私の名を呼びなさい。そしたら救ってあげますよ。私の住んでる極楽浄土へ想いをめぐらせなさい。そして10回でも私の名前を呼べばそれで全部チャラにしてあげますから。ということではないかと思います。

ここの背景にあるのは、阿弥陀経です。阿弥陀経には極楽浄土の様子が事細かに記されているわけです。極楽を想像して私の名前を呼べばいい。というのが20願の指すところではないかと思います。

それに出遭った親鸞聖人は、涙がでるほどありがたかったと思います。そしてお念仏の道へ入っていくわけです。とにかくお念仏だ。念仏を唱えよう。

なまんだぶつなまんだぶつ・・・・なまんだぶ・・・

なまん・・・だぶ・・・

やっと自分の救われる道を見つけた!と意気揚々とお念仏を長い間唱えているときにふとまたダメな自分が顔をだしてきて頭をよぎってしまうわけです。

これで本当にいいのか・・・お念仏さえ唱えたら極楽にいけるというけれど、本当かな・・・しかも極楽にいけるはずなのに・・・私は全然うれしくないぞ。そもそも極楽とは本当にあるんだろうか・・・

と親鸞聖人感じてしまうわけです。とても感受性のすぐれた素直な人だなと親鸞聖人のお人柄が偲ばれますが、お念仏に出遭い真宗門徒として生きている自分も含め、ほとんどの人がまだここの段階で足踏みをしているのではないかと思います。

そこでハッとするわけです。阿弥陀様があれだけ救ってくれると言っているのに・・・極楽なんてすばらしいところを用意してくれているのに、自分はそれすら疑ってしまう。本当にダメなやつだ。これじゃ比叡山を降りたときと同じじゃないか・・・ああもう自分は救いようがないな。阿弥陀さんももう愛想つかしちゃうだろうな。と落ち込むわけです。

するとにこにこして、いやニヤニヤしながら阿弥陀さんが言うわけです。

本当にあなたは駄目な人だ。どうしょうもない。と追い討ちをかけるようなことを言うわけです。でも最後に一言。

でもね。それが人間です。そんなことは想定の範囲内ですよ。
あとは全部まかせなさいと。

するとその言葉にお腹の底から何かが湧いてくるわけです。おおお阿弥陀さん・・・・と涙まででそうな勢いです。

この「阿弥陀さん」という声。これこそが真実のお念仏になるわけです。はじめに私の名前を唱えなさいといって呼んだ「阿弥陀さん」とは全くの別物です。

そしてさらに気づくわけです。ああ。極楽を用意してますよ!しかも名前さえ呼べば救われますよ。とあえてそんなわかりやすいことを用意したのは、それでもどれができない。そんな簡単なことすらできないということを自ら気付かせるためだったんだ!!というわけです。そこであの極楽浄土というものが方便であったとも気付かされるわけです。

いままでのお念仏はつまりは難思往生、つまりはそこはまだ自力であり、真実ではなく方便の1つであったわけです。

ここで初めて18願に至りその心をお腹の底から味わうことができるのではないかと思います。この20願から18願へのかわりめをまさに聖道浄土のかわりめありというのかもしれません。

「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」

ああ理屈じゃないな。阿弥陀さんの懐は自分が思ってたよりも深く、自分の想像できるようなもんじゃなかったんだ。奥が深すぎるな。結局は掌の上だったんだと気付かされ難思議往生に至るわけです。ここの背景には大無量寿経というお経があります。

つまりはもうお任せするしかないんだな。理屈こねるのをやめよう。考えても考えても所詮すべては阿弥陀様のおはからいの中なんだということに深く気づかされるということではないかと思います。そしてすべての出来事は阿弥陀さんのおはからいなんだと思うことですべての出来事にはもう意味があるわけです。そしてそこに感謝の念がわいてくると。

ここまで考えましてもう一度冒頭の一文

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。

なんとなくいままでの流れをみますとはじめよりもすっと自分の中に入ってくるような気がします。

最後は理屈こねてるんじゃないんですね。本当にこの三願転入というものを紐とくに、親鸞聖人という人のお人柄、また真宗の奥深さというものに素直に感情移入できるような気がします。またお念仏に生きていくという上でこの心の変化、この順序というのはとても重要な部分ではないかと感じます。

自分なりのご領解ではありますが、三願転入について述べさせていただきました。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: ごりょうげ。
2009.02.07

念仏とはなにか。

ものすごいシンプルだけどこの答えこそが真宗の核になる部分であることは間違いない。念仏とはなにかということにきっと答えはないんだと思う。でも自分の中で念仏というものが年々形を変えてきているのは間違いない。

まじめは意味のわからない呪文みたいなものとなんらかわりなかったのが、徐々に自分の中で真宗をつかんでいくなかでおぼろげな輪郭が見えてきたような気がする。

念仏はたくさんの表現で表されるけど、その表現の中でも自分の中でしっくりとくるものを挙げるなら。

・子どもが道に迷ってどうしょうもなくなってお母さん!と叫んだその声こそがお念仏。
・念仏は我の崩れる音。
・念仏は赤子の泣き声。

これが自分の中で腑に落ちた、いまの自分のご領解の中で素直に了解できる表現だと思う。今日本堂でお経をあげているときに、御本尊の前に亡くなった人の写真をお飾りしていたのだけど、阿弥陀さんの足元に笑顔の写真があるのをみて「仏子」という言葉が浮かんだ。

一般的には仏の弟子。仏教を信じる人。仏弟子ということを指すけど、そこには「子」とある。仏子という言葉を仏の子という意味でとらえるならば、そこから念仏というものの性質を解き明かすことはできないだろうか。

子どもがなにかに迷ったり、どうしょうもないときにどうするかといえば、お母さん!だったりお父さん!だったり、それすらもかなわない時には大きな声をあげて泣く。泣くという行為はある種のあきらめ、自分の限界を超えたときの最終手段のように感じる。泣くしかないという心境だ。そう考えれば泣いているということは、その前に少なから自分で何とかしようというプロセスを経てどうにもならなかったという事実があるのではないだろうか。

迷子になったら、まずはきょろきょろと親を探す、うろうろとする。そのうちに不安は色濃くなってくる。歯をくいしばってがんばって遠くまで親を探し回るかもしれない。でも見つからない。

そしてこみあげてくるものがどうしょうもないときに大声をあげて泣く。幼稚園で子どもたちをみていてもほとんどがそのプロセスを経て大声をあげて堰をきったように泣き出す。最後の最後に子どもはもう自分の力ではどうにもならないことを悟って涙を流す。

そして決してこの時の「泣く」というのは「泣く」ことで助けを求めているというのはないんだと思う。もちろん心のどこかで助けてほしいという想いはあるのかもしれないが、具体的にだれかに助けてもらおうとか、泣いてアピールをすればだれか大人が駆け寄ってきてくれるなんていう考えは一切ないんだと思う。

いま目の前の現状が自分の限界を超えた。だからいま自分にできるのは泣くことだけだ。という自覚というかあきらめと、どうにもならなくてこみあげてしまったという表現が一番しっくりくるんじゃないかと思う。

このプロセスは当り前のようだけど、そのまま人生にも当てはまるんだと思う。

人間生きていればいろんなことにぶつかる。大切な人を亡くすこともある。生きていくのがどうしょうもなくつらいときもある。自分自身が嫌になってどうしょうもないときもある。

そういうときは言い換えれば右も左もわからないような真っ暗闇にいるんだと思う。右も左も上も下もどこにいってもいいかわかんなくて、でも必死に抜け道を探そうとする。その心は子どもが歯をくいしばって親を探すのにちかいものがある。

しかし大人になればなるほどに、そういう自分を素直にうけとめられなくなる。現状を受け入れるまえに、まず思い浮かぶのは打破ではないかと思う。

迷子になったら、いかにこの危機的状況を抜け出すかを考える、そして知識も経験もあるから、人に道を聞くことも、お金を借りることもできる。最悪携帯で電話すればいい。そうして問題を解決していく。解決していくというよりも解決できてしまう。打破しようとしてできない子どもではなく、打破しようとしてたいていのことが打破できてしまうのが大人で、打破することに慣れてしまい、ましてや打破することに価値観を見出そうとしたりする。

あの頃目も前にあった壁の前でただ泣き崩れるだけだった自分はどこにもいなかったかのように。そんな自分は弱く無力な子ども時の話じゃないか。いつまでそんな話をしているんだという顔を平気でする。

でもそれは違うと思う。

道を誰かにきいてもみんなが違う道をすすめて、お金を借りようとおもっても、お金じゃ解決できなくて、携帯電話の電波も届かないところで迷子になるということが人生にはある。

打破できない問題というのは存在する。生きるということ老いるということ病気になるということ、死ぬということ。

その問題にぶつかったときに、打破することがすべてだった自分はいったいどうすればいいんだろうか。

その時にきっとああ泣くっていうのはこんなに難しかったんだと思うかもしれない。それでもまだただ泣くだけになんの意味があるのかと強がろうとする気持ちがでるかもしれない。

でもただ泣くという行為の中には、自分にはどうしょうもないんだという自覚がしっかり存在してる。あきらめ。いうなれば「我」というものがきわめて薄くなっているんじゃないかと思う。

生老病死の問題というのは言い換えれば何をしても打破できない問題。解決法は受け入れるほかにない。自分の中に何かを受け入れるときに一番大事なのは入ってくるそのものの居場所をしっかりと作ることだと思う、それを邪魔するのが「我」だ。

まだまだ若い。病気には負けないぜ。死ぬなんて老人が心配すればいい。なんて思っててもそんなのは妄想で、否応なしにその問題はいつだって目の前にある。

お念仏「南無阿弥陀仏」というのは。

その目の前にある問題がしっかりと輪郭をおびていきなり目の前に現れた時に、うわぁ!なんじゃこりゃもうどうしょうもねぇ!って出てくるときに出てくる音みたいなもんなんだと思う。

言い換えれば、降参しますで、白旗あげることなんだと思う。現実みたら泣くしかないぜ、なまんだぶつなまんだぶつ、という使い方なんだと思う。

そう思えば最初に挙げた

・子どもが道に迷ってどうしょうもなくなってお母さん!と叫んだその声こそがお念仏。
・念仏は我の崩れる音。
・念仏は赤子の泣き声。

というのがなんとなく了解できる気がする。

ここまで考えた時にじゃ降参しました。白旗あげました。お念仏が口をついてでました。そしたら死ぬのがこわくなくなるんでしょうか、そしたら悲しみをのりこえられるんでしょうか。それが口をついてでたら一体どうなるんでしょうか。というところじゃないかと思う。たぶん。本当の意味でお念仏が口をついてでたときにはこんなところには引っかからないんだろうけど自分にはまだこの部分がひっかかるわけです。

でもその疑問がでるということはまだお念仏というのが、自分の中でなにか苦しみを取り除いてくれる呪文のようなものとおんなじ扱いになってしまってるんだと思う。そういう疑問が出るのはそれがまだ打破の手段だと思ってしまっているからなんだと思う。

「打破できない」この1つの事実がもたらしてくれるのは、いいかえれば人間の有限性というか無力さです。「所詮」っていうことに気づかされることだと思う。

考えても考えなくても死ぬ。考えても考えなくても老いる。考えても考えなくても病気になる。生きるというのはそういう目に見えない大きな流れにさらされててあがいてももがいても一緒なんだってことなんだと思う。

人生というのはよくよく見れば思い通りにいくことなんて1つもない。よくもわるくも。

今の現状がつらくてつらくて泣いて泣いて泣いて泣いて。でもそうするとずっと泣いてちゃだめだ。前を向かなきゃと思う。でもそう思ってもそれが正解とは限らないし、それが正解だという保証は何もない。顔をあげたまたたたきのめされるかもしれない。もしかしたら顔をあげたら別の道がひらけて人生が変わるかもしれない。でもそれはわかんない。

顔をあげるのは正解とおもってると。顔をあげたのにまた叩きのめされた!なんで?って思ってしまうけどだれが顔をあげたら叩きのめされないといったんだろうかということじゃないかと思う。

自分の「思う」ことというすべてに正解はない。1秒先に100%はない。わかってるようで見えにくい人間のもろさ弱さ非力さ無力さに心から気付かされて生きるかどうか。

ある念仏者の方が身内を亡くして寺にきた人とこんなやり取りをしたという。

辛かったら泣いたらいいがな。

でも毎日泣いてるわけにいきません。

じゃ泣きやんだらいいがな。

でも涙は止まりません。

止めなくていいがな。

止めないと仕事にいけません。

そんだら行かなきゃいいがな。

いかないとお金がなくなって食べるものがなくなります。

そしたら食べんでいるしかないがな。

食べなかったら死んでしまいます。

そしたらそんときは死んだらいいがな。

これだけ読んだらなんだこりゃと思うかもしれないけどものすごく筋が通ってると思うし、ここで考えさせられるのは「幸せ」ってなんだろうかということだ。

食べ物があるのが幸せなのか。生きていることだけが幸せなのか。泣かないことが幸せなのか。仕事に行くことが幸せなのか。

最後にそんときは死んだらいいがな。という一言にはっとした。死は忌み嫌われて駄目なものだと思ってた自分の価値観にも違う角度があるかもしれないと思った。これはほんとにわかんないけど、きっと念仏者がこのとおりになって死を迎えたとしたらそれは死は受け入れ難く辛く悲しいものなんだろうか。なんかこれは勝手な想像でしかないけど、いやぁしゃあないな。こうなりゃ死ぬしかないがな、なまんだぶつなまんだぶつと晴れやかに死んでいくのではないかと思ってしまう。もしかしたら最後の最後に死にたくない!って思ったとしても、ああやっぱ、死にとうないなぁ。なまんだぶつなまんだぶつと死んでいくんだと思う。

なんだろう。価値観にとらわれずに我にとらわれずに、自分の存在の分をわきまえてる感じこそ念仏に出遭っているということなのかもしれない。

それってものすごく強いことなんじゃないかと思う。

人生は思い通りにいかない。むしろ自分で変えられることないと思うことは一見窮屈できめられたレールの上なのか。と思ってしまうかもしれないけど、それに気づかされることこそこそ最高に自由なんじゃないかと思う。

いまここ。

自分にはここしかない。

念仏とはなにか。きっとその問題を解き明かすということは一生できないと思う。でもこうやって自分の中でご領解としてことあるごとに頭の中にあることを吐き出す作業だけはやめないようにしようと思う。一生解き明かせないような問題に出会えて自分は幸せだ。

まえにまえに。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 2008お彼岸 悪人正機
2008.09.23


今回は親鸞聖人の説かれた悪人正機ということについて少しお話させていただきたいと思います。

歎異抄の3章の冒頭にでてくる一文に「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という1文があります。意訳しますと、善人が救われるというのならば、悪人が救われて当然だ。つまりは阿弥陀さまはそういう区別なくあますところなくすべての人を救うということになります。

普通はであれば、悪人が救われるなら善人が救われるなら当然だ。というならわかりますが、親鸞聖人はまったく正反対のことをいったわけです。

なぜそのようなことを述べたのかというところを考えていきたいと思います。

まず悪人をイメージしてください。と言った時に多くの人は、泥棒や人殺しなどの犯罪者や、さらには人相や柄の悪い人をイメージしるのではないでしょうか。そうしますと逆に善人といえば、温厚で穏やかで、にこにこした、人をイメージするのかもしれません。

しかしそんな漠然としたイメージだけで多くの世間一般的な善や悪というイメージというのはわかっているようで、実は曖昧で確実な基準というのはないわけです。

ひとつ例え話があります。

ある地方の銀行で最近ECOがブームであるということを踏まえ、ECO預金というものをスタートさせました。このECO預金というのは、自分の町の河川の汚染がさがったり、ペットボトルのリサイクル率があがったらその分金利を上げるというサービスだそうです。

地球のため町のためになって金利もあがるということで、大人気のサービスで、その銀行には通常の何十倍もの預金があつまったそうです。預金をはじめて1年でみごとその町の河川の汚染もさがり、そのまちでは水がきれいになり、ペットボトルのリサイクル率があがったそうです。

預金をした人も地球のため、みんなのため、また自分の預金も増えるということでそのサービスは大好評だそうです。一見いいことづくめのようですが、銀行というのは預金で集まったお金を今度は増やすために貸し付けや融資を行うわけですが、そのECO預金であつまった普段よりも何十倍ものお金を他の国に投資するわけです。

そうするとその投資されたお金でその国は開発を行うわけです。普段の何十倍のお金で普段の何倍もの伐採がおこなわれ、たくさんの重機からはふだんの何倍ものCO2が排出されます。

差し引きしますと、自分の街は1年で見違えるようにきれいになったかもしれませんが、地球規模では1年で砂漠化してしまった土地がたくさんできたわけです。その土地ですむ所を失った人住めなくなった動物がたくさんいるわけです。

この場合、いいことをしているつもりでいた預金者はしらないところでこういうことを生み出しているわけです。

この預金者は善人か悪人かといわれればとても曖昧になってしまいます。

人間は目に見えるものからみえないものまでたくさんのかかわりと関係の中に生きていることは事実です。人間というのは、このように自分の知らないところで、いくらいいことをしていると思っていてももしかしたらどこかで誰かを傷つけたり、悲しませたりさらには罪の大小にかかわらず法律に触れてることだってあるかもしれません。いくら自分の目の前で正しいと思うことを貫き通していてもそれが絶対であるかどうかなんてことはわからないというわけです。

親鸞聖人も歎異抄の後序の中で善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。とつまりは善と悪このふたつはなにがよくてわるいかは自分の知り及ぶことではないと述べています。つまりは私たちのする善悪の区別や判断などあてにならないし、絶対でないということを述べているわけです。

現代は情報社会です、自分もそうですが、テレビをみていて、あいつは悪い。こいつはいい。また勝ち組や負け組など、だれかがだれかを判断して、あたかもその価値観があたりまえであるかのように蔓延しています。自分はしっかりしているから大丈夫だ。自分でしっかり判断してる。関係ないとおもっていても価値観までも刷り込まれてしまう時代です。いつその中に自分がはいっているかもわからない。そして知らないところでたくさんの犠牲をしいているかもしれない、大きな勘違いで悲しむ人を生み出しているかもしれないという事実がここにはあるわけです。

阿弥陀さまはそういう人間の勝手につけた善とか悪とかそのような区別など一切関係なくもっと大きな目で私たちをみてくれているわけです。そしてすべての人を余すことなく救うと述べているわけです。

しかしこれを理解するというのはなかなか難しいことです。自分自身少し前にある宗教戦争の報道映像をみました。インドネシアである村が宗教対立するほかの村人に虐殺されるという事件がきました。その映像はあまりに凄惨なものでした。首をおとされた人、また1歳にも満たない子どもまですべての村人が悲惨な殺され方をしました。ただ宗教が違うという理由だけで。

その映像の中に殺した人も映っていました。しかしその顔は自分はなにも間違ったことはしていないといわんばかりに堂々としているものでした。

その映像をみていて、自分の中に一番はじめに浮かんだのが、悲しさとまた同時にこの悪人正機という言葉でした。先ほど話しましたが、人間のつけた善も悪も絶対的な価値観はないと。阿弥陀仏はすべての人をあますところなく救ってくれると、善人がすくわれるなら悪人がすくわれて当然だというわけです。

そう考えればこの犯人も救われて当然なわけです。法律を犯すどころかこんな残虐なことをした犯人でさえです。

そのとき自分の中にわいた悲しいという気持ちと、悪人正機の教えというものが消化できないまましばらく考えていました。頭ではわかっているつもりですが、はっきりいえばこんな犯人でも救われるということが腑に落ちなかったからです。なんで親鸞聖人はそんなことをいったんだろうか、阿弥陀さまはそういう人も救おうと思えるのはなんでだろうか。と思いました。

そのときに歎異抄の中にこんなやりとりがあったのを思い出しました。「唯円房は私の言う言葉を信じるか」と仰せられたので、「信じます」とお答えしましたら、「では、私の言うことに背かないだろうな」と念を押されたので、「その通りにします」とお答えしたところ、「では、人を千人殺してきなさい。そうすれば浄土往生は確定するぞ」と仰せられましたが、「仰せではございますが、私の器量では、一人でさえも殺すことは到底出来ません」とお答えしましたところ、「では、どうして親鸞の言葉に従うと言ったか」と仰せになりました。「これで分かったであろう。何事でも自分の思い通りに出来るのなら、浄土往生のために人を千人殺せと言われたらその通り殺せるはずだ。しかし、一人でも殺せないという理由があるから殺すことが出来ないのだ。自分の心が良いから自分がいい人間だから殺さないということではない。殺さないでいたいと思っていても、百人も千人も殺すこともあるのだ」と言われました。

この文章を何度もよみかえしてみて、このやり取りの中にあるものがまさにいま自分の思うところにぴったりと当てはまる気がしました。

人間というのは、見えないたくさんの価値観や、情報や関係性、苦しみやしがらみに振り回されていきています。その中で人生の選択を間違えないように自分の意志で選択をして生きていると思いこんでいきています。しかし、その自分のよかれとおもってした判断の中でもしらないだけで、誰かを犠牲にしたり、もしかしたら苦しめているかもしれません。先ほどの預金の例のように自分の行為がどこかでだれかの苦しみにつながっている可能性はあるわけです。逆にだれかを苦しめてやろうとおもってしたことが誰かを救っていることだってありえるわけです。

自分の行動がすべて自分の思い通り狙い通りにいくかといえばそんなことはないわけです。

じゃあなにを基準に行動すればいいのかといえば、いま自分にできるのは自分の思ったことをするだけです。それが正しいか正しくないか、善か悪かなどということは考えぬいてもわからないわけです。自分が「思う」ということ「行う」ことも本当は自分の力を超えた大きな流れの中にあるわけです。自分だけでなく誰かが起こした事件すらもその大きな流れの中でおきたことなわけです。

理由さえそろえば自分も誰かを殺してしまうかもしれない、殺したくなくても、もしかして家に強盗が押し入ってきてきたら家族を守るためにその犯人さしてしまうかもしれないし、宗教の対立で村人をたくさん殺した犯人と、同じ立場で、同じ関係性の中で生まれ育ちその場にいたのがもしも自分だったとしたら、絶対にそれをしなかった。といいきれる根拠はなにもないわけです。そういう弱さ、あやうさみたいなものをだれもが抱えて生きているわけです。

その人が殺すのをためらわなかったのにはためらわないだけのなにかがそこにあったからというわけです。

その理由、なにかというのは仏教では因果とか宿業ともいいますが、その因果は自分の力でどうにでもなることではなく、それが他人からもたらされるかもしれないし、家族や育った環境からもたらされるかもしれないし、自然からもたらされるかもしれないし、さらには時代によってもたらされるかもしれない。それは誰にもわからないわけです。因果は自分の力ではどうにもならないおおきな流れであるわけです、そして人間はその中で生かされているわけです。

そう考えますとたまたま自分がここに平和にいきているのは、そういう理由がそろわなかっただけで、いつそういう理由さえそろえばなにをするかなんてわからないというのがわが身であるわけです。

事実敵を倒すということを公然と求められていた時代が数十年前にはあったわけです。

理由さえそろえばいつでも自分も同じだということです。その事実だけに善だ悪だと決めつけることはできないわけです。

一つの事実や出来事には必ず背景があるということを忘れてはいけないんだと思います。窮鼠猫をかむという言葉がありますが、追い詰められたネズミが猫をかんだらネズミだけが裁かれて悪人あつかいされているようなものではないかと思います。鼠が命をかけるほど追い詰められていたという事実にも目を向けなければいけないわけです。その事実はいつ自分のみにふりかかるかもわからないわけです。

追い詰められてかみつくなんて、それは弱い人だけだと思うかもしれませんがその弱さや恐ろしさも自分の中にもあるということ、それを自覚するということが大切なのではないかと思います。

人間はいつどのような因果がめぐってくるかわからないわけです。

阿弥陀仏の救いというのはそういう生きとし生けるもの、追い詰めたものも、追い詰められたものも、犯罪をおかしても犯していなくても、すべての因果に生きる生きとし生けるものすべてにむけられたもので、いくら自分の力でただしく生きていこうとしてもできない人間という存在そのものに向けられているわけです。その阿弥陀仏の心をその心を大慈悲心といいます。ここには悲しみという字が含まれています、そのような弱い人間を慈しみ、そして悲しみ、一緒に泣き寄り添ってくれると、救わずにはいられないというのが仏の願いなわけです。とても深くあたたく、ありがたい心だと感じます。

そのような弱い人間を仏教では凡夫といいます。そんな危うさや弱さを抱えた私たちが善とか悪とかそれを区別できるはずがないわけです。凡夫の私たちは自分で判断しているとしてもそれが正しいかどうかということはわからないしいつ自分本位の考えに偏っているかわからないわけです。自分自身はじめにあの犯人も救われるということは理解できないと思いましたが、そう思う自分のなかにはあんな人間と自分は違うんだというおごりがあったのかもしれません。

自分本位といえば、テレビをみているととある愛犬家の方が、動物虐待のニュースをきいてひどくこころを痛めていました。しかし人間というのは犬だけではなく、生きるということはたくさんの動物の命を奪ってなりたっているわけです。今日だってたくさんの命を口にしていきているわけです。犬だから駄目で、牛や鳥ならいいんだ。という理論にはなんの根拠もなければそこに善悪の区別もつけられるはずがないわけです。そういいますと、食べるために殺すのと悪戯に命を奪うのは違う。と思うかもしれませんが、この飽食の時代に目の前のだされた肉を一口も残さずに食べてきた人はいないと思います。今日はおなかいっぱいだからいいや。もったいないけどのこそう。時には冷蔵庫の中であらこのお肉賞味期限切れてるわ。とただ廃棄されている肉は年間何万トンあるわけです。命にしたらどれだけの数になるかわかりません。

それだっていたずらに命をうばってるのかもしれません。

一番見えにくく一番近くにいて一番遠い存在が自分であり、それが人間です。

一番はじめに、悪人をイメージしてください。といいましたが、そこでまず自分も顔を思い浮かべた人はいないと思います。それくらい人間というのは自分以外のことは他人事になってしまっているわけです。あんな人間ではない、自分がそんなことをするはずがない。さらには自分の身にそんなことが降りかかるはずがないとたかをくくってしまいます。

清沢満之というかたの言葉で「宗教は自覚である」という言葉が少し前まで門前の掲示板にはってありましたが、真宗の入り口、さらに宗教の入り口というのはまずは自分自身に目を向けることですです。自らの身をただしい目で見て凡夫であることを自覚をするということが大切なのではないかと思います。さらにいえばこの自覚というのは、目の前にある事実を他人事としないで自分の中にしっかりと落して考えるということでないかと思うわけです。

それが真宗でいう聞法の入り口であり自力を離れ他力に依るということなのではないかと思います。その自力の無力さをしり他力を知ることを回心といいます。

その深い自覚を感じ回心した時に初めて自力いうものの無力さを痛感するわけです。そして自らの身をなにかに救いを求めざるをいられないわけです、そこに信心がうまれ自然と口をお念仏がついてでる。

阿弥陀さまがいるから信じて自発的にお念仏をしよう。ではなくて

救われるしかない自分に深く気付いたところに阿弥陀様がいるわけです、そしてそう感じた自分の中から、お念仏があとから自然と口をついてでるわけです。

なまんだぶつなまんだぶつ。

このようなわが身を一切おまかせいたします。といういみです。わが身をおまかせして目の前の現実に深く手を合わせしっかりとそれを受け止めて生きていく。その心の中、その姿の中に阿弥陀様がいるのではないかと思うわけです。

今回このお彼岸という日を機縁に自分自身も改めて見つめ直す機会をいただければと思います。今回お話しました歎異抄の13条というのは、一見今回の話の中でも感じた方がいるかもしれませんが、悪いことした人を擁護しているととらえられがちです。それが親鸞や法然が流罪になったことの発端にもなった部分であり、真宗の教義という点ではとても深い部分であります。とてもこの時間の中には語りつくせないものがあります。そんなとても難しいテーマでお話をさせていただき自分自身まだしっかりと受け止めきれていない部分もあり、たくさんの疑問も抱える中でわかりにくく伝わりきらなかった点もたくさんあったかもしれません。最後まできいていただきありがとうございました。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: いわんや悪人をや。
2008.09.19

今回歎異抄の13条を何度も読み返して、いままで自分がそこにあったものを読み違えていたことに気付かされ衝撃をうけるとともに、また真宗の奥深さをしった。

悪人正機の意味をはきちがえて、阿弥陀仏は悪人を真っ先に救うということをいう人たちがいて、阿弥陀仏に救われるなら悪事を働いてもいいし、むしろ悪事を働いたほうがいいという輩がいた時代に、普通はいくら阿弥陀仏が救ってくれるからといって悪事を働くのはやめろ。悪いことのし放題でいいわけない。というのは当たり前にみえるし、自分自身そりゃあたりまえだろ。と思ってたけど、

しかしこの13条は、逆にそうやって本願に甘えて悪いことのし放題はいけない!と強く主張してもっともらしいことをいうことこそが、阿弥陀仏の本願に背いているとうことが書かれているわけだ。

ほんとうにここで言われていることは人間の陥りやすい弱さというか脆弱さだ。

今回、「悪人正機」をテーマに話をさせていただくにあたって、いろんなことを考えてわかったこと気付かされたことがたくさんあったと同時に、おんなじくらいの疑問にぶつかって、でもそういう本気で頭や心や体や五感をフルにつかって考えていけるような疑問にぶつかれるということは幸せなことだと感じる。

悪人を思い浮かべてください。といったときに自分の顔を思い浮かべる人がいないということがまさに「いわんや悪人をや」なんだろうな。

しかし、真宗は深いがゆえにたくさんの危険性をはらんでいるのもたしかだ。これをしっかりと感じていなければただ単純に悪いことを擁護してるととらえられかねない。実際それが発端で流罪になったわけだし。

ああ。なむなむ。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 代名詞を捨てること。
2008.08.27

いまこの社会で宗教を扱うということは本当に難しい。

末法とはよくいったもので、社会というものの中で生きる上で、内面に目を向けることや宗教というものに触れる機会というのは優先順位ではかなり下のほうに位置せざるをえない。

どうしても生活であったり、仕事であったり、それこそ娯楽であったり。よくみてみればいくらでも選択肢のある中で選ぶこと自体が大きなカテゴリーの枠の中だけにあることで、そこの枠からはずれた選択をするということは極めて少ない。

豊かになることはすばらしいことだと思う。豊かになるというのは言い換えれば選択肢が増えること。

でも選択肢が増えるということはそこから何を選ぶかということが選ぶ側に委ねられる。そんなたくさんの選択肢の中で、あれはいい。こういう生き方は理想。あれは負け組。これは勝ち組。なんて見出しがおどり特集を組まれる。

こないだまでよかったものがすぐにダメになる。それに振り回されて、価値観におどらされて、追われるようにそれについていこうとする。選択肢が増えた分、迷いが増えて、そこから生まれる苦しみは年々増えていくんじゃないかと思う。

犯罪の低年齢化だってその弊害のひとつだと思う。

自分が幼稚園や小学校やだった時にくらべて今の子どもたちに課せられた選択肢ははるかに多いんじゃないかと思う。

そこにかかる重圧や期待にこたえようとする想いは大人にかかるものなんかよりも何十倍も重い。本来は社会からかかるそういう重圧を取り除いてあげるはずだった親はそれに輪をかけるように家でもプレッシャーをかける。

最近でも犯罪をおこした人が口々に言う。親から勉強しろといわれて。親に就職をしないのを馬鹿にされた。親を困らせてやろうとおもった。

親もふりまわされてる。価値観に。子どもはこうあるべき。世間に顔向けできない。そんな言葉の1つ1つがこの世界を少しづつゆがめていく。

職業だってそうだ。

こういう職業がかっこいい。ああいう仕事がしたい。自分に合う仕事はこれ。転職して自分に合う仕事を。そんなたくさんの選択肢と職業選択の自由がもたらしたのは、ニートという言葉とネットカフェ難民ですか。

みんな疲れてるし迷ってるのに。そんな姿にすぐにまた世間は見出しをつける。

GDPに比例して増えていくのは自殺者の数をみて、本当に必要なものはなんだろうと考えることが大事なんじゃないかと思う。

あれがいい。これはわるい。そう判断する自分の感覚がほんとうに正しいなんてことは絶対にない。

くさいものに蓋という言葉がだいきらいです。

くさいものなんだ生きるということは。

そういう価値観の連鎖の中にいるということが社会であり世間であり。さらには世俗であり衆生。そしてくさいものに蓋をするということが人間のものさし。

そんなものを手放していきるということが出家。

でもそんなことできるはずもない。出家しました、はい価値観にふりまわされませんよ。なんてことあるはずもない。むしろ出家をすれば出家をしたのに。出家者だからという新しい枠にとらわれそこにまた1つの苦しみが生まれる。

親鸞はそんな自分をみて僧をやめようとした。自分は僧なのに人を好きになるし。同じようなところで苦しむしという思いが強かったのかもしれない。そこで長いこと仏教にかかわっていながらもまだ自分の中にも僧はこうあるべきで、これなら世俗だという人間の価値観に振り回されていたことに気づく。

僧をやめるとか続けるとか。僧であることとか俗であることとか。そういうものにとらわれていてはだめだと。

そこで非僧非俗という立ち位置を打ち出す。

僧に非ず俗に非ず。じゃぁなんなんだと。

自分はいままでそう思ってた。

でもこれはじゃあなに。じゃなくて。

ない。なんもない。ってことなんじゃないかと思った。

僧でも俗でも、なんでもない。

愚禿釈親鸞

これだけ。

親鸞なりにすべてを手放した結果が「愚禿釈親鸞」にいきついたんだと思う。世間の代名詞の中で生きることを捨てるということが真宗の中ではものすごく大切なことのような気がした。

そうおもえば「ひとへに親鸞1人がためなりけり」という言葉の意味もなんとなく了解できるようなきがする。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 2008お盆法話
2008.07.14


前に人間のものさし、仏様のものさしということでお話をさせていただいたことがあります。人間はあらゆるものにレッテルをはっていきている。そしてその自分で自ら作り上げた価値観にしばられて生きている、しかし仏様のものさしの前では価値観はみんな一緒であるという話をさせていただきました。今日はそこをもう少し掘り下げてお話させていただきたいとおもいます。

よく人は頭がいい人はいい。わるいからだめだ。いい大学をでてるからいいと。時にニートやホームレスを見てああはなりたくないなぁ。自分はとそんなことはない。とおもっていてもふとしたときにそのようなこれはいい。これはだめだと。自分の価値観でものごとを判断してしないがちなのが人間です。

しかし本当の姿というのはどちらかに価値がありどちらかには価値がないというのでなく。そこにある自分の評価はあくまで自分の頭をとおして感じた、または大多数の世間のものさしを通したある種のレッテルであって自分の価値観。さらには世間という価値観でものごとを判断しているわけです。

しかしよくみてみれば絶対的な価値観というのは存在しないわけです。

そこに気づかせていただくということが仏教の入り口になるわけです。

そのレッテルということについて深くほりさげていきますと。そのレッテルが言い換えれば苦しみになるわけです。

お釈迦様は人間の避けることのできないおおきな苦しみを四苦とされました。

続きを読む

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 神様がいるとかいないとか。
2008.07.04

このあいだはじめてあった人たちと話をしているときに、その人たちは同い年でそれぞれまったく違う仕事をしてるんだけど自分の家が寺だという話をしたら。

そうなんだ、でも実際のところ神様とかいないとおもってるんでしょ。って言われた。

なるほど。たしかに寺といえば神様がいて、お坊さんはみんな表向きは一応神様がいるということを信じている姿勢でいるんだというのが一般的な見方なんだということに改めて気づかされた気がしたと同時に、ああこれがいまの現状かと思った。

そういう考えが蔓延しているとしたら宗教に対しての疑念や胡散臭さはいやでもぬぐえるはずがない。

でもそれが当然だし、神社とお寺の区別がつかないのだって一般的で自分があたりまえに話すことや考えてることがむしろぜんぜん一般的じゃないんだとまざまざと感じさせられて、自分はこの時代で宗教を扱って生きていく以上もっとがんばらなきゃと思った。

正直地獄とか天国とかあると思ってないでしょ。ってかそんなのナンセンスだよね。自分でもそう思ってるんでしょ。というのだって普通に出てくる疑問だろう。

これは別の人だけどこれまた同じ年代の女の子と宗教の話をしていたら、たしかに人間啓蒙は必要だよねといっていた。

宗教と啓蒙は違う。

真宗には聞法という言葉がある。これは真宗の中でも一番大切な基本。

聞法とは法に聞くこと。

こうかくと。

またはじまった。仏教とか宗教はすぐに難しい言葉で煙に巻いたような理論をならべたてる。なんて思う人もいるかもしれないし、なんか一種のアレルギーみたいに宗教かよ・・・うわぁ・・・

と感じる人もいるかもしれない。

たしかに最近じゃ宗教なんてうさんくさいという構図ができてもなんらおかしくないし、むしろそれくらいの警戒心をもたないといけないのかなとすら思うし、自分自身そう思う。

寺にうまれてもそう思うし。いまだになんとなく自分の扱っているものが宗教なんだというのはぴんと来ない。

これは自分が感じることだけど、おもうに宗教っていうのは根本はほんとにシンプルなものなんだと思う。

シンプルなものをシンプルに伝えるということはものすごい危険性をはらんでいる。だから宗教はシンプルなものを伝えるためにあの手この手を考えてきたんだと思う。

それがひとつの方便であり、天国とか地獄とか、神様とかであって。大事なのはようはそれがあるかどうかその存在を信じるかどうかというよりも、それを通してなにが伝えたいかということなんだと思う。

だから宗教を学ぶと気づくのは、それがあるかないかという議論はさほどおおきな問題ではない。

宗教の根本や伝えたいことはものすごく単純で簡単なこと。

くそったれ。世の中馬鹿ばっかりだ。とか。ああ、なんであの子はおれに振り向かないんだとか。お金がほしいのになんでないんだとか。なんでおれだけこんな気持ちにならなきゃいけないんだとか。あんなやつがいなければいいのにとか。

そんな些細なことも含め、心の中が自分の力ではどうしょうもなく苦しいときに処方する薬みたいなもんなんだと思う。

大抵の問題はそんなもの処方されなくても解決できるし、ビールでも一杯飲んですかっとすれば忘れられるし、ストレス解消してればこなしていけるさ。

というレベルだけど。

それでもビールをのんでもストレス解消をしてもどうにも拭い去れない問題というものは確実にある。どんなに外にその解決法を探してもみつからない問題が確実にある。

もうどうにも目が背けられなくて、内側に自分の中に矢印をむけて自分の心の持ち方をかえないと乗り越えられない瞬間はだれにでも必ずくるんだとおもう。

大まかに言えば、老いること。病気になること。死ぬこと。

そのときにはじめて考え始めるんではなくて。

むしろ生きているということはその問題にぶつかってない人はいないということに気づいてその瞬間から矢印を内側にむけていきていくことが大切で。

自分周りでおきるどうにもならない問題を自分のこととしてうけてめていくのが宗教とか仏教の入り口なんだと思う。

そしてそういう気持ちを先人はどう考えてきたのかなと。何十年、何百年、何千年たっても人間の悩みや苦しみはそうそうかわらないと思う。というよりも老いることも病気になることも死ぬことも。もう何千億人もの先人たちが経験してきてることなわけで。

今日にいたる間での長い年月の間にそういう問題を命を懸けて考え抜いてきた人たちがたくさんいる。

それを教科書のように参考にして今の自分におきかえる。もっとくだいていえばそれを鏡にしていまの自分をうつしてみる。

これが聞法のこころであって。

さらにいえば宗教に触れるということなんだと思う。

だから自分に矢印を向けないで、ずばりいわれちゃっても。天国から死んだ人が語りかけてきても。たかいお札をはったってなんの解決にもならない。

それは傷にバンドエイドをはって隠すだけで安心するようなものとなんもかわらないんだと思う。

話がだいぶそれたけど。

なにがいいたいかというと。

自分は布教したいわけでも教化したいわけでもない。というと怒られそうだけど。自分自身が感じたこと。おもったこと。苦しんだこと。真宗にてらしあわせて、自分自身の聞法をするだけ。

なんかそう思うと飽きっぽい自分がいままで飽きもせずに続けてきた書くという行為がなんとなくつながってきた気がするわけですよ。そんでついでに願わくば自分がそういう姿勢で生きていくことで真宗や仏法というものが少しでもだれかの何か大切な部分になれればいいとおもう。

ほんとに同じ世代の人と話をするとよくわかる。疑問や問いのでる部分や宗教の胡散臭さがなんで生まれるかとか。でもやっぱり生きていくうえで宗教は絶対に必要だと思う。

これは個人的な気持ちだけど、信仰というとただの妄信的なイメージが強いけど。でも信じられるには理由が必ずあってその理由をしっかりとみつめる必要があるんだと思う。摩訶不思議で抽象的なものなものだけを信じられるはずがない。でもそれが宗教なんじゃないの?と思うかもしれないけど。それは違うんだということだけは自分の生き方や姿勢の中で示していかなきゃいけないんだろうな。

まだまだだなぁほんと。最近こういうことを考えると果たして生きている間だけの短い時間で自分にはそのひとかけらでも責任を果たせるんだろうかというあせりすら感じる。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 本願ぼこり
2008.06.27


日蓮が念仏をしてると無間地獄に堕ちるといったのを取り上げてよく真宗の人間と日蓮宗の人間は相反するというけど。日蓮の時代にたしかに真宗の中に念仏を間違った解釈をしていた人がたくさんいたことは事実で、「本願ぼこり」という言葉もあるが、まさに歎異抄が書かれたのもこの時代なわけだし、その言葉尻だけをとらえていがみ合っているうちは本当の姿はみえてないんだと思う。

なぜこの人はそういうことを言ったのか。行ったのか。

これは時代に関係なく。

秋葉原の事件の犯人だってそうだけど。

かならず。そこにはかならず理由がある。

おれはその理由はつきつめていけばきっと最後の最後には自分の中でもきっと理解できるものなんじゃないかと信じてる。

他人事なんて事実は一つもない。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: お寺ってのは。
2008.06.09

最近感じること。

最後に人が還るところは。手を差し伸べてくれたり甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるところでも、信念をもって突き進む力強いところでも、誰かや何かのために心血を注ぐところでもないんじゃないかと思う。

なにもしてくれないところ。なにもしないけど突き放すわけじゃなく。いつまでもそこにいさせてくれるところ。ただそれだけなんじゃないかと思う。

最後の最後に安心できたり癒されたりするのは。

なにかをしてくれるよりも、なにもしないで横にいてくれるだけいいんだと思う。まるごとそれでいいよって言ってくれる所なんだと思う。

南無阿弥陀仏をとなえればなんか救われたり、楽になったり、ときには成仏できるとか思ってる人がいる。そんな便利な呪文みたいに感じてる人がいるかもしれないけど。誤解をおそれずにいうなら、阿弥陀さんはなんにもしてくれない。いくら念仏を唱えたところで目の前に現れてなにか苦しみを取り除いてくれる方法なんて教えてくれない。そもそもそんな非現実的なものじゃない。

ただ阿弥陀さんはそこにいるだけ。それが存在するかしないかの問題じゃなく。いつでもぶれずにいたいときにいたいだけ、いさせてくれる場所みたいなもんなんだと思う。

そんなの意味ないじゃんともうかもしれないけど。

南無阿弥陀佛っていうのは。

言い換えれば。

現実よど~んとこいと。だめなら泣きましょう。よければ笑いましょう。必要なときはここにいるよ。なんにもできないけど一緒にいますよ。いたいだけここにいたらいいよ。それだけしかできないけどね。

ってことなんじゃないかと思う。

さらにいえば。

お寺って場所はそういうところなんだろうな。中道っていうのはどこにもよらないところ。真宗でいえば俗でも僧でもないところ。

どこにも片足つっこまずにのらりくらりとある場所。世間とは時間の流れがすこしずれてるところ。

正直いままではなんとなくそれが嫌で。なんかそんな時間の流れや自分のおかれた環境がぬるくて、なんか宙ぶらりんのような気がしてたし、そうじゃないほうへばかり進んでたような気がするけど。

最近思うのは、お寺というのは、甲斐甲斐しくなにかしたり、誰かや何かや社会のためでもなく、ただ価値観を振り回さずにそこにいつづけるだけでよくて、さらにいえばそうやっていつづけなきゃいけないんだろうな。そんでそこに足を運ぶ人に変わらずにいられたらそれだけでいいのかもしれない。

きっと今の時代に生きている人は、いろんな価値観に振り回されてて、こういう生き方は理想。こういう活動はすばらしい。根暗はだめだ。ひきこもっちゃだめだ。納豆は体にいいぜ。ポテトは体に良くないぜ!耳をふさぎたくてもたくさんの情報にさらされて。さらされ続けて麻痺してるのかもしれないけど、絶対こころのどっかが疲れてる人がたくさんいると思う。

こうかくと誤解されそうだけどお寺は胸をはってなにもしないことをしなくちゃいけないのかもしれない。

最後に還るところ。最後に人が安心するのは。

きっとなにかを変えられる力ではなくて、なににも変えられない力なのかもしれない。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)

  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。