Title: 因
2008.04.07


つきつめていくとさ。

なにももたないということろにいきつくんだと思う。

いま自分の手の中にあるとおもっているもの全部が苦なんだとおもう。

さらにいえば実際手の中にあるもので自分が手にしてるものなんてなにもないのかもしれない。

なにももたないということは。

物理的なことだけではなくて。

あらゆる因をもたない。

たとえば髪が薄くなったからといって頭にかつらをかぶったらさ。自分の外に苦への因を持つことになる。先日亡くなった人の遺灰からからダイヤモンドをつくる技術があるという話をきいた。それこそ究極の苦じゃないかと思う。人間はどうしてそういう感情や目先の癒しにとびつくんだろう。それが実際ものすごく根深い苦を生み出してることが往々にあるのに。

因を持たないということは。

どこにもこころをおかないということになる。

どこにもこころをおかないということは。

最終的に。

自分ももたないということで。

でもそれは山にこもって誰とも関わらず家族も持たずに暮らせばいいのかというとそうではなくて。それでも今度はそこに人がやってきたらどうしよう。という苦を生み出してるわけで。

つまりは家族が因になりえるからそれをもたないのではなくて。家族をもったときにそれを因にしないところにこころをおくということで。

言葉ではどうしても伝えにくいけど。

ようはすべての因は自分の中にあるわけで。自分の脳や感情が生み出してるに過ぎないってことにきづくことが大切なんじゃないだろうか。

それは自我とか自己とかそういうことだけではなくて。

肉体をふくめ。

所有するという感覚のないところ。

無とも空ともちがう。

なんていえばいいんだろう。

どこにもこころをおかないということはものすごく冷たくきこえるかもしれないけど。

どこにもこころをおかないということほど愛にあふれていることはないんだとおもう。

阿頼耶識とか未那識とかむずかしいことではなく。

無意識とか共通意識とかそういうのともちがう。

個という認識をこえたところにある人間というものの根源的な立ち位置というものは。

ものすごく広大でひろいところにたったときの爽快感ににてるかもしれない。


こんなに感覚をぶちまけただけの文章だけど。

きっと伝わる人には伝わるんじゃないかと思う。

こういう感覚の世界を言葉を選びながら話せる場所というのが僧伽なのだとしたら。

僧伽がほしい。


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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。