Title: 脳死問題について

脳死と臓器移植の法案が衆議院で可決され、自分の周りでもたくさんのお坊さんが議論をしています。つい先日、あるお坊さんが、もっと医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで活発な議論をすべきだ!と言っているのを聞きました。しかし自分の考え方の中ではこの議論にお坊さんは関わるべきでないと思います。

脳死は人の死かどうか。医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで 活発な議論がなされたら答えの出ることなのでしょうか。

どうしても自分の中で人間というものの凡夫たる所以を深く省みるとどうしてもこの議論をして、法律を改正できたら、改正されると世界から苦しみが減るのかと思ってしまうわけです。この法律がしっかりした議論がされて制定された前と後で人間の苦悩の数は変わるのか。

そもそも人の命というもの、または死というものにラインを引く、言い換えればそれを理解しようとする、理解しようとするということは自分の価値観の中で判別するということです。それをできると思うこと自体が人間の苦悩であり凡夫たるゆえんではないかと思ってしまいます。

誰かにとってはその法律が制定されれば苦しみが減り、たくさんの命がすくわれるかもしれません。でも誰かにとっては同時に新たな苦しみを生みだし新たな問題を生み出すんではないかと考えてしまいます。A案でなく他の案、またはここにあがっていないなにかほかの法案で人を幸せにして苦悩を消すことができるのかなと、こういうともともこもないんですけど・・・どこを選んでもどこかに苦悩の種を残すということは選ぶことが正解ではないのかと思ってしまいます。人間が理屈で理論をするときに、人間が世間の物差しでなにかをはかるときにはどうしてもどこからみても完璧ということはありえないと思うからです。仏教の価値観というものは誰にあっても普遍的なものであると思います。

仏教の目的というのはまずは自分自身が仏教によって救われるかどうかではないかと思っています。脳死は人の死かどうか。という議論に宗教者がはいってああでもないこうでもないということ自体が仏教の本来の目的と少しずれているような気がしてしまいます。仏陀の毒矢の例えがありますが、理屈ではないところの部分ではないかと感じます。

仏教の目的は苦しみの種を減らすことです。どういう形であれどこかで苦しみを減らしてもどこかで苦しみが増えるような議論に、自分はジレンマを感じてしまうわけです。そこに自分がどうしても加われない気がしてしまうんです。なにかもっと根本的にやらなきゃいけないことがあるんじゃないかと。

仏教の根本はその人間の根源的な部分に関わることだと思います。仏教っていうのは自分の体温で世界の温度をあげるような途方もない作業かもしれません。法律をいますぐかえればいいというのではなく、自分はこれから法律をつくっていくであろう人間や、自分の手の届くところにいる人たちだけでも仏法に触れる機会があってその中でなにかを感じてもらえたらなにかがかわるのかもしれないと思います。というかそれぐらいしかできないんですけど。

現代の抱える様々な問題とその議論は、仏陀が死んだらどうなるんだと問われた時にそんなのわかんない。と答えたときの議論に似ているような気がします。

自分にできるのは脳死の場面に立ち会うことになった遺族が、死というものをどういう形であれうけいれられる、真宗的な言い方ですがそれこそ阿弥陀さんのはからいにお任せしようと思えるような種をまき続けていくことであり、まずは縁のあるところ手の届くところに仏法の種をまくことだと思います。

POSTED @ 2009.06.22 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。