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Title: いま自分の目に映っているもの。
2008.11.26 「人間は見えるものを見るのではなく見たいものを見る」という言葉がある。 少しはやいけど今年1年を振り返ってみると本当にいろんなことがあった。世界的な株価暴落、餃子事件に年金問題や大相撲の問題、今年も戦争やテロが減ることはなかったし、日本では自殺者は3万人を超えた。事故扱いにされていない自殺者を含めればきっとゆうに5万人近くになるんじゃないかと思う。911のテロで行方不明または亡くなった人が約3000人、そう考えれば日本では毎月あの規模のテロが起きているのと同じくらいの人が自殺をしている計算になる。それに社会的格差もどんどん広がる。 もういろんなことが覆い隠せないぎりぎりのところなんだろうなと思う。 どんなにいいところを見ようとしても、明るい話題を持ち上げようとしても。夢とか希望を胸に掲げてどんなにポジティブになろうとしてもそれがハリボテだってみんなが気付き始めてるんだろうと思う。 そんな時代だからこそニートやネットカフェ難民をみて、ああはなりたくないねという。ホームレス中学生をみて自分はまだ幸せだなと思う。ある統計によれば秋葉原の事件をみて世論の多くは犯人にたいして同情の気持ちを持っているという。きっとおバカキャラが世の中に受けるのもきっとおんなじ理由なんじゃないかと思う。どこかで自分の中にある優越感を安心に変えようとしてるのかもしれない。まだ自分はましだって。 いつ自分がそうなってもおかしくないという不安がだれにでも見え隠れする。誤解を恐れずにはっきりいうなら、この社会で田中角栄のような人が生まれてくるのはありえないですよ。今の社会じゃそれなりに教育をうけてきて、それなりに社会的地位がなければ、のしあがれるにも限度があると思う。この世なのかを動かしてるのは数人の人間で、お金なんていうのは上の方でうまいこと循環してるだけですよ。コツコツ頑張った人だけが報われるかいえばそうじゃないです。まさにマルクスが心配した通りの世界じゃないか。いままで資本主義の恩恵にあずかってきてそのデメリットに目をむけてこなかったツケがいまになって表面化してるんだろう。 しかもそんな世の中に対する心の不安に病名までつけてそれを治療しなきゃいけないといって、心の病んだといわれる人を作り出して薬を処方する。 不安は病ですか。 思うにこんな時代じゃ鬱になるほうが正常なんじゃないかとすら感じてしまう。毎月何千人も自殺してる国でそれでもハイテンションでなんとかなるさ。なんて言っていることの方が異常じゃないかと思う。 この現実に目を背けたり、気付かないふりをしたり、ましてや夢や希望があれば乗り切れるとはしゃいでももうどうがんばっても覆い隠せないんですよ。 それを前向きに乗り切ろうと、希望や夢で乗り切ろうとするから苦しくなる。乗り越えられないことがあたかも弱い人間で、順応できない人間をだめな人間であるかのような価値観なんかくそくらえですよ。 こうなりゃあきらめるしかない。 「人間は見えるものを見るのではなく見たいものを見る」 いま自分の目に映っているものが正しく見えているものではなくて自分が見たいものではないかと、もう一度自問自答して正しい目で物事を判断することが大事なんじゃないかと思う。 そんである意味開き直る。 諦めるというと否定的なとらえられ方をするけど、社会とか世論とかの物差しから離れた物差しに持ち替えて価値観をはかっていくことが必要なんじゃないかと思う。幸せの価値観すら刷り込まれている自分に気づくことじゃないかと思う。 だれでもない。 幸せは自分の心がきめる。 そもそも幸せってなんですか。 っていう原始的な疑問をもう一度真剣に考えるべき時代なんじゃないだろうか。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 中論
2008.11.10
その反面、こんなに簡単に手にしてしまうということが本当にいいのかどうかとも疑問に思う。昔はシルクロードを渡って命をかけてこの経典を目指していた人たちがたくさんいたのに、いまやAmazonでぽちっとすれば2日で家に届くなんて。西遊記もびっくりですよ。 でも本当に経典というものの重みを最近ひしひしと感じる。苦しい時に帰れる場所、依れる場所が明確にあるということの幸せ。 しかしこれを読んでみるとなるほどこないだの講演の前置きもしかりダライラマ法王のあの論理的で確実な言葉につながってくるのかと思った。 仏教はきな臭い不確実なものではない。 ものすごく現実的で論理的なものなんだということがよくわかる。でも目に見えないものを論理的に突き詰めていく時に出てくるものというのが宗教を難解にするし誤解を生みだすんだろうな。 しかし読み始めてまだ浅いけど、ここに書かれている内容はフロイトの本の中にもこないだ読んだ脳科学者の茂木さんの本の中にも同じようなことが書いてあった。心理学も脳科学も突き詰めていくと同じようなところに行きつくんだろうな。こないだ話した精神科の先生も同じようなことを言っていた。 七高僧の書いたものをはじめて読んだけど、竜樹の中論だけでこれだけのものだとしたら他のものを読み終えてそれを全部自分の中に落とそうとおもったら途方もない時間が必要なんだと改めて時間のなさに若干の焦りすら感じる。 中論の13章の第2項に自律神経がバランスしているときに得られる均衡のとれた静寂が人間の幸福を示す永遠の指導標であろうという1文があるけど、自律神経のことまで触れられているのだとしたら、やっぱりそこには呼吸は切って切り離せないと思うし、インドからヨガができたということにも筋が通るし呼吸法と仏教はきっても切り離せないところにあるんだと再認識。 Title: 法縁
2008.11.08 ダライラマ法王の話をきいて。 きっといろんなことを感じる人もいるかもしれないけど、自分の感じたことをそのまま書きます。 今回はじめてダライラマ法王の話をきいて、とくにめあたらしい言葉もなければ、目から鱗が落ちるようなこともなかった。でもそれがかえって深く自分の心に響いたし、あれだけ単純な言葉であれだけ確かなものを感じさせられたのはすごいと思った。感応道交っていうんだろうか、言葉尻ではなく力のある言葉だった。 話をきいて一番に感じたのは「ああこれで間違ってなかったんだ」っていう感情だった。 えらそうになにをわかった気になってるんだと思うかもしれないけど、でも本当に自分がここ数年でかみしめてきたこと、文章にしてきたこと、もやもやしてきたこと、その一つ一つにそれでいいんだ。と言われたような気がした。だからこそ、あの話をきいても自分の中でなんの違和感もわかなかったし、むしろ当たり前のことをものすごく確かなものとして受け止められたし、その言葉に確かな深みみたいなものを感じることができた。 ものすごくレベルを下げて話をしているのも十分に伝わったし、あの時間で通訳を通してでは限界があるのもわかる。でもその中で完璧な位置で難しくも噛み砕きすぎずも仏教というものの本質をとらえていたと思うし、あの語り口やたとえ話は本当にわかりやすく入りやすかった。そしてなによりもすごいなと思ったのが話の導入の仕方と前置きだった。 自分と同じものを読んでる。自分と同じものを扱っている。ダライラマ法王も自分でいっていた通り自分も同じなんだ。という言葉がものすごく意味をもっていた。遠い人じゃない。なにか不思議な力を持っているわけでも神格化されるような人でもない。一言でいえば、こんなこというのははばかれるのかもしれないけど、自分とおなじ一求道者で宗教者なんだということがひしひしと伝わってきた。今回の話をきいて、ダライラマ法王の言葉に新たなことを吸収したり、学んだりということではなく、いま進んでる道にどんと自信がもてたというか、背中をどんとたたかれた気がしたと同時に自分もあんなふうに宗教を扱えるところまで行きつけるんだろうかとおもった。 自分にはあれだけ確かな言葉で宗教を語れない。あれだけ強いものを言葉にのせることはできない。同じ言葉にのっている重みの違いっていうのをまざまざと感じた。あれだけ仏教を、哲学的に論理的に語れて常識の枠の中からはみださずに真実を伝えることができる人はきっとほかにはいないと思う。あれが仏陀の資質みたいなものなんだろうか。 最後の質疑応答である禅宗の僧侶の質問に対して、法王は竜樹の中論の中の18章24章26章にあなたの答えが書いてあるといった。それがものすごく気になって中論を読んでみようと思った。 今回感じた一つは竜樹の中論もそうだけど、宗派の垣根をこえて宗教を扱っていくことの重要性というか、宗派の違いはあれど自分たちの扱っているものは同じであるという認識を宗教を扱う人間は持つべきだと思った。 真宗の人間はすべてではないけど宗派に偏っている人がおおいと思う。もちろん自分の知っている人の範囲だけだけど、親鸞教団を連発する人とか、親鸞によりすぎて本質を見失っているんんじゃないかとすら感じる人もいる。真宗はピラミッド構造で頂点に親鸞がいると、しかし禅宗というのは何かに頂点があるわけじゃない分幅もあるし、解釈に余裕もある、ピラミッドというよりは台形に近い。といった人がいた。それを言われた時にはよくわからない言葉だったけど今になってすこしその意味がわかったような気がした。 宗教の本質は自分の中にある。宗教の本質は単純でいてシンプルなもの。ということがものすごくよくわかった。 本当に話がきけてよかった。この法縁に感謝。
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