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Title: 非僧非俗
忙しくてなんて言い訳にもならないけど。 アリストテレスやプラトンやアルキメデスやソクラテス達が星と星をつないで星座を作れたのも、無知の知を思いついたのも、お風呂の水があふれるのをみて質量の法則をおもいついたのも、たくさんの崇高な思考や哲学を生み出せたのは彼らには十分に自分と向き合える時間があったからだと思う。 身の回りのすべてを奴隷にやらせてたんだからやることと言えば考えるくらいしかなかったろうに。 余裕というと弊害があるかもしれないけど、何もしていない時間を余裕と呼ぶならばそういう時間がなければ生み出せないものがある。 それは自分のこと。 人間のこと。 生きるってこと。
ようはなにもなければいやがおうにも目を向ける先は自分自身や人間しかないわけだ。でもいまはとりあえずテレビをつける。とりあえずパソコンをたたく。とりあえず携帯をいじる。ゲームをする。とりあえずできることだけでも数え切れないほどある。 その時間に暇だったり無駄かも知れないけどなにもしないでいたら気づけることがあるかもしれないのに。なんにもしてない時間が現代人にはどれだけあるんだろう。自分や人に目を向ける時間を持ってる人がどれだけいるんだろう。 宗教離れも命の尊さに気づけないのも少なからずそれも要因だと思う。 末法の世とはよくいったもので人間は抱えるのは簡単なのに手放すことは容易にできない生き物なのに、次から次へ抱えたくなるようなものがあふれてくる。 だからどこかで抱えるのをやめないといつまでも本当に大切なものは見えないのかも知れない。 手放すことで得るものがはかりしれないってことに気づけないまま死んでしまうかもしれない。 一番強い人間はなにも持ってない人間なのかもしれない。 現代において自分を保って生きるってことは本当に難しいことだと思う。まだ昭和の高度経済成長前までにはすこしはいまよりも自分と向き合える時間はあったんだと思う。 明治昭和初期を最後におれは有名な哲学者を知らない。 なんで生まれてきたのかとか。 人は死んだらどうなるかとか。 なんで太陽は明るいんだろうとか。 地球ってなんだろうとか。 そんなことに疑問が浮かびそうになってもテレビのスイッチを入れればそんな疑問を一瞬でかき消す。 自分でなにかを手放して、何かに線を引かなきゃ一生見えないものがたくさんあると思う。かき消されていくものがたくさんあるんだと思う。 そのかき消されたものこそが生きていく上ではなにより大切なものだったりするんじゃないかと思う。 曽我先生が、もう娑婆の話は十分ですわっていったのが今素直に了解できる気がする。 合理的じゃないかもしれない。でも合理的ってのは生活や仕事をする上ではプラスなのかもしれないけど、生きる上ではマイナス要素の方が強いかも知れない。 そんなのナンセンスだって言われるかもしれないしいくら考えても答えなんてでないかもしれないけど。 でもせめておれはわからないと言うことを知りたいし、考えることをやめたくはない。きっとおれの仕事はこういう事の繰り返しなんだと思う。 このあいだどしゃぶりの日に雨音が本堂に響いていた。豪雨だったその日の雨音は轟音のように轟いていた。その中で1人で座ってたら、ふとああ静寂ってのはこういうことかって思った。実際はものすごい雨音がしてるのにいまここに流れているのものは間違いなく静寂だと感じた。 全く音がしなくて、対比する音がなかったら、そこにあった静寂をこんな風に感じることはなかったかもしれない。 それと同じでおれがこんなことを考えられるのも自分がいまそんな現代に生きているからで、これが比叡山にでも篭もって修行でもしてたらそんな疑問にも気づけなかったのかも知れない。 おもうにこれが非僧非俗の精神なのかもしれない。 |
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