Title: 無礙の一道
真宗のいう救いと仏陀のいう覚りとは違うものなのだろうか。
親鸞は覚りをどう受け止めていたのか。
仏教はものにもの以上の意味を見出すところに苦しみを生み出すという解釈をしてもいいのだろうか。人間のものさしでなく仏のものさしでものを見るということは生も死もそれ以上でもそれ以下でもないわけで。
目の前に2人のひとがおぼれていたときに。それが母と嫁であろうと。友人と他人であろうと。近いほうに手を差し伸べられるのが正解なら。
そこにかかる想いや心はどこにいくんだろうか。
そしてその正解が覚りにつながるならば。
覚りの境地とは苦しみもないかわりに彩りもないのじゃないかと感じてしまう。でもそれはまだ自分のなかの執着がすてきれていないからなんだろうか。でも執着をすてるのが無理だというのが真宗であるならばなにが真宗のいう救済と覚りはやはり違うものだということなんだろうか。
苦しみがるから喜びがあるんじゃないだろうか。という迷いはまちがってるんだろうか。
仏陀も晩年モッガラーナとサーリプッタを失ったときに嘆き苦しんだんじゃないんだろうか。覚りは苦しみを生み出さない境地ではなくて苦しみに対処する方法だということなんだろうか。
きっとこうやって頭で考えて堂々巡りをしててもどうしょうもないのはわかってるのに。
きっと親鸞がいたらそれこそ南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
というんだろうな。
ああだめだな。
念仏者は無礙の一道なり。
ほとほととおい。
POSTED @ 2008.05.05 |
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