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Title: こころをこめて無駄話したい。
どうもここ最近気持ちが前にでて活字が追いつかなくなるような感覚を味わってないなってうすうす自分の中でも気づいてたし、そういう自分に多少の焦りみたいな、これでいいのかな。っていう思いはずっとあったけどでもきっと自分の状態が安定してるからだとか、本を読む時間がないからだとか、きっとそのうちすぐにそういう感覚なんて取り戻せるって思ってたかをくくってた部分があった。
でも昨日の夜中ふと思った。 きっとその原因はここ数ヶ月、きっと数年の間 会話には体力を使うし、いまは話すことが仕事のようなもんだし、やっぱり仕事で思いっきり話をして帰ってくると疲れてるし極力頭を休めたいし、結局頭の中は無駄なことを考えるスペースがなくなってるんだと思う。 だからあまり無駄なことを考えてなかったし、ニュース見たってああそうなんだって、いやいや、それはないだろ。ってつっこむことも少なかったと思う。疑問をもつということは体力をつかう。体が必然的にそれを避けてたのかもしれない。 しかも仕事で話す話は、本音で語れない部分もあるし、そうじゃないのにって思いながらもきっぱりと言い切らなきゃいけないときもあるから。そういうことを繰り返してたらやっぱだめだね。話すってこと自体に期待をもてなくなっちゃう。 そういう時間をあたりまえに何気なく過ごしてると、いつのまにかそれが当たり前になる。 いま思えばたまに友達と呑んでてもリアルな娑婆のはなしばっかで、青臭かったり夢見がちだったり、どうでもいいような真剣な会話の仕方をわすれちゃってたみたいだ。 感じたままにいいこといおうなんて思わないで、自分の想いをそのままぶつけるような会話を楽しまなきゃだめだな。 おれが名前に一字もらった人 曽我量深と言う人がうちの寺に寝泊まりしていたときに、新聞を届けたうちのおばあちゃんにむかって、娑婆の話はもう十分ですわ。って言ったそうだ。娑婆にどっぷりつかってたらみえるもんもみえないし、そうじゃなくてもだめだし、それこそが非僧非俗の立ち位置なんだということを感じた。 いまの自分のどこにも属さないような全然関係なくて真っ向から意見の分かれるような会話がおもいきりしたい。 一文にもならないような会話を真剣にしたい。一杯のみながらでもいいし、ファミレスだって、電車の中でだっていい。ここではなしたって世界を1mmも変えられないのはわかってるくせにむきになってしまうような真っ向な会話がしたい。 昨日のNHKの青蔵鉄道の特集みてて感じたチベットにおける漢民族の存在とはとか。 とにかくしのぎを削るような会話がしたい。 人間はどうでもいいようなこととか目に見えない部分に真剣になれた分だけわかること見えることがたくさああるんだって昔ある人に言われたことがある。 どうでもいいよっていえば一言で片づくし、考えなければそれでいいんだけど でもそれから目を背けて今の現状しか見えなくなって、
自己満足でもいいや。そういう自分の精神状態はきらいじゃない。 だれかと話せたらそれはなおさらいい。 環境は自分を変えるというけど、 なんかここまででてるのに思い出せないようななんかイヤな感じがすっと溶けたようなきがする。 これでいいんだ。 |
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